2021年6月27日<聖霊降臨後第5主日(特定8)>説教

「ほんとうの奇跡とは」

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マルコによる福音書5章22~24、35~43節

 先週に引き続き、今朝の福音書も、主イエスの奇跡物語です。先週は、ガリラヤ湖に激しい突風が起こって、弟子たちの乗っている舟がひっくり返りそうになって皆が大慌てしていたところを、舟の中ですやすや眠っておられた主イエスが、嵐を静められた、そして、主はご自分が共にいるにもかかわらず、神を信じず、死への恐怖に怯え震えていた弟子たちに対し「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか」と叱ったというお話でした。

 今朝は、今にも死にそうな娘を救ってほしいと父親に懇願され、そうこうしているうちに、とうとう死んでしまった子どもを主が生き返らせるというお話です。ザ・奇跡物語です。単なる歴史物語として読むと、「すごい話だな、当時そこに居合わせた人々は素晴らしい体験をした、今はまさかそんなことあり得ないけどね」、となります。でも、わたしたちは知っているように、聖書は他人事ではありません。そこに書かれた神の言葉は今も生きており、今生きるわたしたち一人ひとりに語りかけています。復活の主は、今もわたしたちと共におり、わたしたちに対して、事あるごとに、「恐れることはない。ただ信じなさい」と語りかけておられるのです。

 では、どうして奇跡は起こらないのでしょう。この地球のどこかで、地震、津波、豪雨、洪水、火山の噴火、あらゆる天災が毎日のように起きています。戦争、紛争や様々な事件に巻き込まれ何人もの人たちが命を落としています。それらの人々の中にイエス様を心の底から信じて助けを求める人は一人としていなかったのでしょうか。病気や飢餓で死んでいく子どもたちについて言えばどうでしょう。ユニセフによると、現在、5歳未満で亡くなる子どもは、年間550万人、一日に約1万5千人なのだそうです。だいたい4~5秒に一人の割合で子どもたちの命が失われているのです。この子たちの親は、祈らなかったのでしょうか。いつもそばにおられるはずの神に助けを求めるなんてこと、まったくしなかったのでしょうか? わたしも二人の子の親ですから、祈らないでおくなんてこと考えられません。

 また、わたしたちは皆、今この瞬間、苦しんでいる人を知っています。そして心の底から神に祈るのです。わたしをこの苦しみから救ってください。お願いします。わたしの愛するあの人を助けてください。あの人を死なせないでくださいと。でも、聖書の中に書かれているような奇跡は、滅多に起こりません。どんなに祈っても、どんなに信じようとしても。それでもごくたまに、祈りが聞かれ、奇跡が起こった。神よ、感謝します!と証しするクリスチャンもいます。何が違うのでしょう。やはり、そこには信仰の大きさの違いがあるのでしょうか。

 強い信仰をもって奇跡が起こされた人の話を聞くと、どんなに祈っても奇跡が起きないわたしたちはますます落ち込みます。隣の人のテストの答案には100点と書かれてあるのに、わたしのは30点。落第です。クリスチャン失格の烙印を押されたかのように感じるのです。

 奇跡って何なのでしょうか。もしかしたら、わたしたち、何か勘違いしているのかもしれません。「恐れることはない。ただ信じなさい」というイエス様の言葉の意味を、取り違えているのかもしれません。「ただ信じなさい」というのは、必ず治る、必ず今の状況を脱することができるということではありません。強く、強く信じるならば、あなたの願い事は必ず叶えられるということではないのです。もし、そうであるなら、願うわたしたち自身が神ということになります。自分のいのちをコントロールしようとすること、それは自分が自分を神としているということなのです。わたしが神なのではなく、神こそが神であると悟り、「御名が聖とされますように」と祈るとき、本当の意味で奇跡は起こるのです。

 「ただ信じなさい」という言葉、それは、その場で魔法がかけられることを信じなさいというのではなく、原語では「信じ続けなさい」ということを意味します。何があっても、自分の思いとしてはたとえ最悪の結果が待っていようともです。自分の思いと神の思いは必ずしも同じでない、しかし神の救いの約束は必ず果たされるということを知っておく必要があります。

 イザヤ書55章には次のような言葉があります。

 わたしの思いは、あなたたちの思いと異なり、わたしの道はあなたたちの道と異なると主は言われる。天が地を高く超えているように、わたしの道は、あなたたちの道を、わたしの思いはあなたたちの思いを、高く超えている。雨も雪も、ひとたび天から降ればむなしく天にもどることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ、種まく人には種を与え、食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も、むなしくは、わたしのもとにもどらない。

 主は言われます。「恐れることはない。ただ信じなさい」と。ただ信じる。それは、わたしたちのいのちが、わたしたちの行く道が神さまの御手の中にあることを信じること。神さまが、わたしのいのち、わたしの時を支配され、すべて良きに計らってくださることを信じること。わたしたちのちっぽけな頭では、苦しみや悲しみでしかないことも、言葉には表しえない「神の国」と呼ばれる美しい絵の中に、しっかりと描かれた一筆であることを信じること。そして、すべてを神にゆだねることなのです。

 先週の福音書(マルコ4:35-41)ですが、弟子たちが、ただイエスが共におられることがどういうことかを知っていたならば、たとえ、舟がひっくり返ろうと、たとえ、舟のたどり着く先がわたしたちのこの世を去ってから行く場所であったとしても、大丈夫だったのです。ヤイロが、イエス様に「恐れることはない。ただ信じなさい」と言われたときに、本当の意味で信じること、神の御手にゆだねることができていたならば、たとえ、娘が二度とその目を開くことがなくても、彼の心の中ですべてが感謝と賛美に変わったことでしょう。

 奇跡とはそういうものなのです。昔、カトリックの巡礼地である、フランスのルルドへ行ったとき、その光景にわたしは圧倒されました。奇跡の泉へ向かう大勢の車いすとストレッチャーに乗せられた人々とそれらを押す看護師や介護士の人々の群れです。病気やケガが本当に癒されるという人はほんの、ほんのわずかです。本当のところ、そんな方がいるのかどうかも分かりません。でも、そこを訪れる人はみんな、一人残らず癒されて帰っていくと聞きます。すべての不安や思い煩いが取り除かれ、神が共におられる、だから大丈夫、神はわたしを愛しておられるというゆるぎない確信を、人々はそこで与えられるのです。これこそが「タリタ、クム」なのです。これを奇跡と呼ばずになんと呼びましょうか。

 信じるということ、自分の思い、願いを捨てて主にゆだねることは、難しいことです。目に見える主イエスがいない今、自分一人の力ではできません。だから、神さまはわたしたち一人ひとりに聖霊を送ってくださっているのです。聖霊は神の力、神を知らせ、信じさせ、ゆだねさせてくれる助け主です。目に見える奇跡が起こるよう願う前に、主にゆだねる力が与えらえるよう、聖霊を呼び求めましょう。主イエスの声は今も、そしてこれからもずっとあなたの心の中に響いています。「恐れることはない。ただ信じなさい」。この呼びかけに、あなたはどう応えますか。