「一に謙遜、二に謙遜、三、四がなくて五に謙遜」
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マタイによる福音書22章34~46節
今、わたしたちが「旧約聖書」と呼んでいる書物は、イエスの時代の人々、ユダヤ人たちが「聖書」として大切にしていたものですが、律法、預言者、諸書という3つのカテゴリーに分けられ、その中でもとりわけ、モーセが書いたとされる、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記の5つを含む「律法の書」が一番重要とされていました。そこには山のように神の掟が記されていて、その戒律の数はなんと613あったと言われています。律法学者やファリサイ派の人たちは、これを全部覚え、それらを分類し、重要なものとさほど重要でないものを区別しようとしていたようです。ある日、一人の律法の専門家が、イエスを試そうとして尋ねました。「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」ファリサイ派と律法学者たちは、普段から律法をないがしろにしているかのように見えるイエスの言葉尻を捉え、なんとかして逮捕したいと考えていました。
律法の中で、どの掟が最も重要かという問いに対し、イエスはすぐさま答えます。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』 これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」これら二つは、申命記とレビ記に別々に書かれた掟です。この二つの戒めを守ることによって人は残りの全部に従うことになるのだということをイエスは言われました。
神を愛し、人を自分のように愛する。とても簡単に聞こえますけど、非常にスケールの大きなことです。聖書のすべての教えがこの二つに基づくというわけですから。愛とは何なのでしょうか。コリントの信徒への手紙I、第13章に、パウロは次のように書いています。「たとえ、人びとの異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。」「信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」この箇所は、わたしが今チャプレンをさせていただいている京都の平安女学院において、毎年の入学式と卒業式で読まれます。「愛を持ちなさい、愛ある人になりましょう。」わたしたちはこの聖書の教えを伝え続けています。どんなに素晴らしい学業を修めても、どんなにビジネスで成功しても、どんなに社会に貢献する人となっても、どんなに信心深い人であっても、愛がなければだめなのです。
聖書の根幹とも言える、この「愛」「愛する」とは何なのでしょう。「隣人を自分のように愛する」というのは、なんとなくですが分かります。みんな自分が一番かわいい、一番大切。その思いを隣人にも向けなさいということなのです。またそれが非常に難しいことであるということも、同時になんとなくわかります。しかし、その前の第一の掟である「神を愛しなさい」、それも「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして愛しなさい」というのはとっても分かりにくい気がします。神様は隣人と違って目に見えないからです。声も聞こえず、触れることもできないからです。愛したとしても、その返事がもらえるのかもらえないのかもよく分からないからです。難しいことなのか、とてもシンプルなことなのか、それさえもよく分かりません。
「神を愛する」その意味を知る方法は、しかしながら、ただ一つあります。主イエスの生き方を知ることです。それしか、わたしたちにお手本はないのです。では、イエスはどう生きたのでしょう。フィリピの信徒への手紙2章には、こう書かれています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しいものであることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じものになられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」イエスの生き方、それは、神に対して従順に、謙遜に生きるということだったのです。
高慢にならず、謙遜に生きるということは、人間にとって、それも特に現代の競争社会において、とても難しいことです。もう何十年も昔のことですが、ナザレ修女会の修女さんのお話を聞いたことがあります。その方が何の話をされていたのか全く覚えていないのですが、話された中でただ一つだけずっと心に残っている言葉があります。それは、「キリスト者の生き方というのは、一に謙遜、二に謙遜、三、四がなくて、五に謙遜。謙遜以外ございません!」という言葉でした。当時はあまり意味が分からなかったのですが、その断言の仕方があまりに強烈で心に焼き付きました。大人になって、本当の意味でキリストに出会い、またたくさんのイエスに従って生きようとしておられる先輩クリスチャンに出会い、そのことが少しずつ分かってきた気がしています。
先日、近所の素晴らしい珈琲豆焙煎の専門店を見つけました。お店の創業者のインタビュー記事が載った雑誌を読んで知ったのです。創業者は現在93歳、戦後まもなくから65年お店を続けられ、奈良でのコーヒー豆焙煎の草分けとも言われています。戦中戦後の苦難を生き抜き、コーヒー豆とどのように出会ったか、豆に対する思いなどが書かれていました。素晴らしいと思ったのが、お店の名前です。「凡豆」と書いてボンズと読むのです。コーヒーの原点と言われるエチオピアでは、コーヒーのことをボンというらしく、これにこの漢字を当てはめたということです。素晴らしく質の高い豆を、だれもが安く毎日味わえる「平凡な豆」として提供したいという思いをその名前に込めたのだそうです。この世のだれが、自身で苦労して手に入れた最高級の豆を、最高の技術をもって焙煎して、それを平凡な豆と呼ぶでしょうか。わたしただったら、間違いなく、一目でプレミアムというのが分かる名前を付けることでしょう。またそこは、お店にしては珍しく、日曜日が定休日でした。なんとなくですが、まったく儲けようとされていないことにもとても魅力を感じました。それで、行ってみました。お店に一歩入ると、芳醇な香りがわたしの身と心を包み、ものすごく幸せな気持ちになりました。93歳のご主人は圧迫骨折をされて奥で休まれており、今後継者となっておられる娘さん夫婦が丁寧に、そしてものすごく喜んで出迎えてくださいました。豆はとってもリーズナブルな値段で感激し、帰りにお店の写真を撮らせてもらっていいですかと聞くと、ご主人が奥からそろりそろりと出てこられ、何も言わずに一緒に隣に立ってくださり、ただただ感激しました。喜びにあふれて、家に帰り、深みのある美味しいコーヒーを入れて、さっそく写真をインターネットで紹介すると、すぐにある信徒の方から「この方クリスチャンですよね、前に行っていた教会にお一人で来ておられました」と連絡があり、胸が熱くなりました。 神を愛し、人を自分のように愛する。それは、神様の前に謙虚に、謙遜に生きることなのです。命、能力、富、家族、友人、健康、わたしたちが持つすべてのものは、自分で勝ち取ったものではなく、神様のものです。わたしたちキリスト者は、それらを主から受けて、主に捧げます。それは、すべての栄光を主に帰し、自分に与えられた賜物をまわりに生きる人びとと分かち合うということなのでないでしょうか。さあ、わたしたち、明日から、どのように生きましょうか。神様のために何をさせていただけるのか、心を躍らせながら、主イエスに従う道を歩んでまいりましょう。