「いつもあなたがたと共にいる」
YouTube動画はこちらから
マタイによる福音書28章16~20節
先週は聖霊降臨日、そして今週は三位一体主日です。聖霊の働きや、父と子と聖霊の関係といったものを覚える主日です。しかし、そうは言われても正直言ってあまり身近に感じないという方も多いのではないかと思います。
三位一体、それは果たしてどういうことなのでしょう。神さまとイエス様と聖霊、それはそれぞれ違うけれども、同じものだと教えられています。しかし具体的にそれがどのようなことなのかと聞かれれば、答えに詰まってしまうところです。
もしわたしがそのように質問されたとしたら、こう答えるでしょう。「あせらなくったっていいです。いずれ分かります」と。あと何年後か、何十年後かは知りませんが、「ああ、こういうことだったんだ」ってわかる、その日までのお楽しみです。
ということで今週の説教を終わってしまったら、今日の話は何だったのだろうということになりますので、もう少し続けていきたいと思います。復活されたイエス様はガリラヤの山で、弟子たちに対してこのように言われます。
わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。
これが今日、わたしたちが心に留めていきたいみ言葉です。ではこの言葉は、わたしたちに対して何を語ろうとしているのでしょうか。
もしわたしたちがクリスチャンの務めとして、各家庭を回って信徒を獲得しなさいというきつい縛りがあったとしたら、わたしは耐えられなかったでしょう。みんなに洗礼を受けてほしい、その思いは当然あります。みんなが神さまの愛を知り、喜びに満たされて過ごしてほしい。いつもそう思います。
しかし、何をどうやったらいいのかわからない。何を伝えていいのかわからない。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」ということが一体何なのか、それがわからなければ、わたしたちは途方に暮れてしまうと思うのです。
ではここで少し、何をイエス様は命じられたのか、考えてみたいと思います。旧約聖書の中には、さまざまな決まりがありました。年に何度か、過越祭など大きな祭りのときにはみんなエルサレムに行きなさい。こういうときにはこのようなささげ物をしなさい。そんなことが掟として、事細かに決められていました。
イエス様はそれらのことを、すべてないがしろにしていたわけではありません。しかしイエス様にとって、もっと大切なことがありました。それはパウロの手紙のこの記述に集約されています。
「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。
パウロはローマの信徒への手紙に、こう書きました。それはイエス様がそのようなお方だったからです。福音書のあらゆる場面に、そのように行動されるイエス様の姿が描かれているからです。
やもめの息子が亡くなったことに心を痛め、中風や重い皮膚病という人々から見捨てられ、関わりすら拒絶されていた人たちに手を差し伸べ、女性や子どもたちを大切にし、罪びとや徴税人とも食事をする。
この数日、わたしは一人考えていました。イエス様が今、この時代にいたら、どこにおられるのだろうかと。奈良では緊急事態宣言も解除され、新規感染者といわれる人たちは減っております。商店街を歩く人の数も、少し増えてきたように思います。
しかし東京や北九州、また世界に目を向けてみるとブラジルなどでは、まだまだ緊迫した状況があります。その中でわたしたちは、こうして礼拝をしている。もしイエス様がこの時代にいたとしたら、どこにおられるのでしょうか。
わたしは思います。今、傷つき、苦しみ、悲しんでいる人の傍らで、同じように痛み、叫び、涙を流しておられるのではないかと。でもそれは決して、ここにはおられないという意味ではありません。わたしたちの不安の中にも当然おられるし、憤りの中にも、そして喜びの中にもおられる、そう確信しています。
今日の三位一体主日、その意味は難しいという話を最初にしました。頭で理解しようとしても、難しいし、そんなことは意味がないかもしれません。しかし、このように考えることはできないでしょうか。父なる神さま、子なるイエス様、そして聖霊が、いつもわたしたちと共にいて、関わり、支えていてくださる。導いてくださる。そういうことなのだと。
わたしたちは日々の暮らしの中で、そしてこのコロナの状況の中で、何度となく感じることができたはずです。神さまはわたしたちの間に生きておられると。それこそが聖霊の働きであるのならば、神さまは確かにわたしたちを大きな愛で包み込み、支え、導いてくださっているのです。
わたしたちが伝え続けていくこと、それはイエス様がなさったことです。そしてそれは、「わたしは世の終わりまで、あなたがたと共にいる」というわたしたちに語られた約束です。目の前にイエス様がいるわけではないし、神さまの姿を直接見たわけでもないし、聖霊をじかに感じることもできないかもしれません。
それでもなお、「共にいるよ」というイエス様の言葉をわたしたちは信じています。そのことを実感し、どんなに怖い時でも一緒にいてくれる方がいる、どんなに涙があふれても一緒に泣いてくれる方がいる。それを伝えて行きたい。
今日、この場にも、またYouTubeの動画を見ている方の中にも、様々な不安を覚えている方がおられるでしょう。その人たちに対して、わたしたちは何をすべきなのでしょうか。それは「共にいる」、「一緒にいる」ということなのではないでしょうか。
三位一体の神さまがわたしたちといつも一緒にいてくださるように、わたしたちも、誰かのとなりにいることができるなら、神さまの優しいみ手はきっとわたしたちとその誰かを包み込んでくださる。そしていつの日か、すべての人たちが神さまの子どもとして共に生きていく、そのような日が来れば、こんなに素晴らしいことはありません。
今日の福音書は、イエス様の宣教命令ともいわれるところです。宣教と聞くと、なんだか大層なことのようにも思えます。でも実際は違います。イエス様がなさったことは本当に簡単なことです。
誰かと共に歩むのです。その誰かとはどのような人か、教会は誰と共に歩む共同体であるべきか、それはとても大事な視点だと思います。そのことを心に留めながら、日々の信仰生活を過ごしていきたいと思います。