2022年1月30日<顕現後第4主日>説教

「権威ある教え」

YouTube動画はこちらから

 ルカによる福音書4章21~32節

 今日の聖書の箇所ですが、「ナザレで受け入れられない」という小見出しがつけられています。

 この「ナザレで受け入れられない」ということ、それは言い換えると「故郷で受け入れられない」ということになるのでしょうか。もしかすると頭の中に、いろんな人の顔が思い浮かんでくる方もおられるかもしれません。

 ところでイエス様は「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」とはっきり言われていますが、何をもってそのように感じたのでしょうか。特に嫌がらせなど目につく行動はありません。聖書には、このように書かれています。「皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。『この人はヨセフの子ではないか』」。イエス様をほめたこと、恵み深い言葉に驚いたこと。それは何ら問題なさそうです。

 問題になるとしたら、「この人はヨセフの子ではないか」という聴衆が放ったその一言だと思います。この言葉によって、イエス様は「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」と感じたということです。

 以前、ある方のお葬式のあとで、そのご家族とお話しすることがありました。その方はクリスチャンではなく、キリスト教のお葬式に参加するのは初めてだったということです。その方は何度も何度も、「このお葬式はよかった、よかった」と感動されていました。「どこがよかったんですか?」、そのように聞いてみました。するとこう言われたんです。「何を言っているのかが、よくわかった」と。同じことを、よく言われることがあります。お祈りの言葉も、聖書の言葉も。意味までは深くわからなかったとしても、今、どんなことが語られ、何を神さまに願い求めているのかがよくわかると言ってくださるのです。

 でも実は、教会がいつも聴衆に分かる言葉で礼拝をしていたかといいますと、そうではありません。わたしたちが属する聖公会はイギリス国教会がそのルーツですが、そのイギリス国教会とは1500年代にカトリック教会から分かれ出た教派のことです。なぜ分かれたのか。大きな理由としてヘンリー8世の離婚問題が社会科の教科書などには書かれていますが、教会的にはそれよりも重要なことがありました。それは自国語、つまり英語で礼拝をおこなうためにそうしたというものです。カトリック教会の礼拝では、ラテン語が用いられていました。聖書もラテン語で読まれ、お祈りの言葉もラテン語でした。それではダメだ。みんなが読めて、みんながお祈りできるものでなければ意味がない。それが聖公会の始まりだったのです。

 わたしたちは、自分の知識を超えたものに対して、恐れたり、ありがたがったりします。そうではなく、自分の身近な物、自分にもできそうなこと、自分の頭で理解できることに対しては、それほどありがたがらない、そんなこともあるのかもしれません。

 今日の福音書の中で、イエス様はシリア人ナアマンの名前を出されました。ナアマンの物語は旧約聖書の列王記下、5章に書かれています。アラムの将軍ナアマンはいわゆる異邦人だったのですが、重い皮膚病にかかっていました。当時、重い皮膚病になると治る見込みはないと考えられていました。彼はあるとき、預言者エリシャのうわさを聞きます。そこでナアマンはアラムの王に頼み、イスラエルの王に手紙と贈り物を送ってもらいます。その上で預言者エリシャに依頼して、自分の重い皮膚病をいやしてほしいと頼むのです。そしてエリシャは、その願いを引き受けました。

 ナアマンはエリシャの家にやってきます。きっとこれでいやしてもらえる、そう思ったことでしょう。当時病気をいやすときには、「手をかざす」ということがおこなわれていました。あわせてお祈りもしていたでしょう。ところがエリシャはナアマンの前に来ることもなく、ヨルダン川に行って7回身を洗いなさいと使いの者に言わせます。ナアマンはそれを聞いて怒ります。彼は将軍です。プライドもあります。エリシャが自分の元にやって来て、手をかざし祈ると思っていた。それをヨルダン川に行って体を洗えばよいだと。バカバカしい。彼は最初はそう言って立ち去ろうとしましたが、家臣が進言します。「もしエリシャが大それたことをしなさいと言ってもあなたはそれをしたでしょう。でも彼は、『身を洗って清くなれ』と言っただけですよ」。その言葉を聞いてナアマンはヨルダン川に行き、7回身を洗います。するとその身体は清くなったというお話しです。

 イエス様がなぜナアマンの名前を出されたのか。異邦人とユダヤ人との対比もあるでしょう。それに加えてただナアマンは、7回体を洗うという何でもないこと、それほどありがたいとも思えないことを、ただしただけなのです。

 今日の使徒書には、異言というものも例に挙げられていました。詳しく言うと長くなりますが、よくわからない言葉で祈るというものです。わたしも聞いたことがあります。でもそうではない。分かる言葉で祈った方がいいのではないか、そう使徒書には書かれているように思います。

 イエス様はナザレの人たちにとって、あまりに身近でした。彼の過去を知っているがゆえに、彼の言葉を素直に受け入れることができませんでした。それよりも自分たちには難解で、理解しがたい言葉や、意味が通じないもの、ちょっと引いてしまうような行為の方がありがたいと思ってしまったのかもしれません。

 でもイエス様は違ったのです。人々の間に生まれ、人々と共に暮らし、喜びも悲しみも、怒りも嘆きも分かち合い、そして人々に伝わる言葉で語られました。遠く離れた存在ではなく、人々に寄り添い、手を差し伸べながら歩んでいかれました。

 そしてイエス様は十字架と復活を経て、わたしたちにも同じように関わってくださいます。遠くの方から見守り、呪文のような言葉をかけ、自分の元に来ることができる人たちだけを相手にするのではありません。奈良の人として、わたしたちの間にいてくださいます。そしていろいろな人を通して、神さまの素晴らしいお恵みを示してくださいます。

 「キリストの香り」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。その人の近くにいると、何だかわからないけれどもイエス様を感じる、そういうことはないでしょうか。特に聖書を語るわけでも、人をどんどん教会に連れてくるわけでもないけど、何となく温かい気持ちになる。そういう方がおられます。わたしはそれが、神さまのお働きだと感じています。マザーテレサやキング牧師など、素晴らしい信仰者はたくさんいます。でもわたしたちの間で神さまは働き、わたしたちを用いて多くの人に福音を伝えられているのです。そのことを受け入れ、歩んでまいりましょう。

 イエス様の福音は、今日、わたしたちが耳にしたとき、実現しています。わたしたちの働きがイエス様と共にあり、豊かに祝福されますように、お祈りしております。