「これが宣教」
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ルカによる福音書10章1~12、16~20節
教会は緑の期節に入り、3週目になりました。緑は成長、命、そして平和を意味する色です。その中で今日読まれた聖書の箇所は、「72人を派遣する」というものです。ルカ福音書には9章の初めに「12人を派遣する」という箇所があります。この12人というのはいわゆる12弟子のことだろうなと想像がつきます。
イエス様と一緒に過ごし、寝食を共にしながら行動した12人のお弟子さんたち。彼らはいつも、イエス様の言葉やおこないを間近に見ていたので、きっとその思いや考え方をある程度理解していたと思います。弟子たちは時々勘違いすることもあるものの、イエス様が何を伝えようとしていたのかは、まあわかっていたのだろうと思います。そのような中で彼らを派遣するのですから、イエス様もだいたい信頼していたのだろうと思います。
ところが今回、ルカ10章に書かれているのは、72人を派遣する物語です。しかしその72人の名前は、聖書のどこにも出てきません。どのような人たちで、どのような思いを持っていたのか、そのようなことはまったくわかっていないのです。それどころか、この72人については、他の福音書には一切書かれていません。ルカ福音書にしか書かれていない出来事だというのです。
先日、夢を見ました。最初は一人の牧師が泊まりにくるということで、食事を用意したり飲み物を買ったりする場面からでした。しかしどんどん、どんどん家に来る方が増え、気が付けば30人ほど、その中には顔を知っている人もいれば、向こうだけがこっちを知っている人もおり、にぎやかな会になっていました。
集団を形成するのに、どれくらいの人数だとお互いの意思疎通がうまくいくのでしょうか。ある資料では、何か行動を起こそうというときに、一番意思統一が図りやすいのは、5から7人くらいだとありました。イエス様の12弟子ですら最後は裏切り者が出てしまったわけですから、あながち間違いではないと思います。ということは、わたしが夢で見た30人の集団では、お互いのこともよくわかってないし、こちらの思いもなかなか伝わらない。多分みなさんも大人数の中にいたときに、同じように感じることがあると思います。
たとえば奈良基督教会の礼拝には、50~60人の方が来られています。その中には観光の方、求道中の方、様々な方がおられます。信徒の方についても、熱心に毎週来られている方、奉仕を一生懸命にされている方、その他にもいろんな方がおられます。もしわたしがここで、「さあ、これからあそこに行って、こういうことをしましょう」と言っても、ついてこられるのは何人くらいでしょうか。なかなか難しいと思います。となると今日の箇所の記述、イエス様が72人を派遣するという物語は、何か特別な意味を持ったもののように思うのです。
今日のこの72人、ここには二つの意味が隠されています。そしてその二つともが、わたしたちに大きく関わることだと思います。まず一つ目、それは72人という数字です。この数字には、大きな意味がありました。その意味とは、この時代、世界は72の民族で構成されていると考えられていたということです。実際にどれだけの数かはわかっていません。しかしユダヤの人々は、それだけの国があると理解していたということです。
ということは、72人を派遣するということは、「世界中に行きなさい」というメッセージでもあるのです。自分たちの中だけで終わるのではなく、この愛の福音をすべての人たちに知らせなさいというのが、この72人という数字に込められたメッセージ、イエス様の思いでもあるのです。
そしてもう一つの意味、それは72人という大人数に隠されています。先ほどからお話ししている様に、それだけの人数を掌握し、すべての人の心を同じ方向に向かわせるのは無理な話です。12弟子ですら、一つにはなれなかったのです。でもそれでも、イエス様が派遣されたということがポイントなのです。72人の中には、つい最近やってきた人もいたでしょう。寝食は共にせず、近くを通りがかったときだけ様子を覗いていたような人もいたでしょう。年齢、性別、職業も様々だったと思います。また熱心にイエス様の周りの世話をしていた人もいれば、自分のことだけで精一杯だった人もいたのではないでしょうか。でも、それでよかったのです。「誰でもよかった」と言ってもいいくらい、イエス様は周りにいる人たちを集め、「行きなさい」と遣わされた。そこに特別な訓練があるわけではありません。必要なスキルを身につけた人でないと行ってはいけない、そんなことをする余裕もあるわけないのです。
聖公会では洗礼を受けた人に対し、「祭司職として」働くように求めます。祭司というと司祭や牧師を連想し、特別な学びが必要であるかのように感じるかもしれません。しかし洗礼を受けた時点で、わたしたちは実は、神さまのご用のために働くことを促されているのです。だからわたしたちも聖書に書かれている72人のように、「行きなさい」と命じられているのだということなのです。ただ、「行けと言われても、どうしたらいいの」と不安に思われるかもしれません。ではイエス様はわたしたちに、何を伝えに行くように言われているのでしょうか。
それは、「あなたがたに平和がありますように」と伝えなさい、ということだけです。「平和」と言っても自分たちが正義に立って、「これが平和だよ」と押し付けるものではありません。そうではなく、「主の平和」、「シャローム」。神さまが共にいることで感じることのできる平安を、すべての人たちに伝えてきなさいということだけなのです。
これが実は、宣教なのです。わたしたちは宣教というと、ともすると、相手の考え方を変えて自分たちの考え方を受け入れさせる、そういうものだと勘違いしがちです。でもそうではないのですね。
神さまがあなたと共にいますよ、あなたにも神さまは手を伸ばされ、あなたにも平安が訪れますよ。そのことを、ただただ伝える。それだけでいい。というよりもそれこそが、わたしたちに与えられた大切な使命なのだということです。
この緑の期節、わたしたちは平和、シャロームを伝え、命の大切さを分かち合っていきましょう。大丈夫です。もし相手が受け入れなかったとしても、その平和はわたしたちに戻ってくるのです。
そして何よりも、イエス様はそれらの場所に、「ご自分が行くつもり」であることも告げられています。わたしたちがたとえ受け入れられなかったとしても、イエス様自らが手を差し伸べて下さる。そのことを信じて、神さまのご用のために歩んでまいりましょう。