2025年2月2日<被献日>説教

「神さまにささげる」

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 ルカによる福音書2章22~40節

 今日、2月2日は被献日です。今年はちょうど2月2日が日曜日にあたりますので、今日は被献日として礼拝をおこないます。祭色も白を用い、喜びをあらわしています。しかしそもそも被献日って何なのか、ご存知でしょうか。

 婦人会では被献日礼拝がおこなわれ、また被献日献金はもともと「婦人献身者」、これは婦人伝道師とかそういう方々のことですが、その方々の働きを支えるために用いられてきました。また2月2日を日本聖公会婦人会は創立記念日として定めたため、被献日イコール婦人会の日だと思う方も多いようです。

 わたしが被献日の礼拝に初めて出たのは、今から20年ちょっと前のことでした。当日仕事の都合をつけ、朝からのプログラムに参加して驚きました。その場には教役者以外、女性しかいなかったのです。それだけであれば、まあ男性は仕事してるのかな、で済んだんですが、説教や主の祈りの話の中で、何度も「女性は」とか「婦人たちは」という言葉が出てきて、「ああそうか、今日は女性のためのプログラムなんだ」と思わされました。

 しかし昨年の大和伝道区の被献日礼拝では女性も多くおられましたが、男性の姿もありました。実はこの被献日という日、すべての人にとって大切な日なのだということが、強調されてきているからです。

 被献日である2月2日は、イエス様がお生まれになった降誕日からちょうど40日目にあたります。旧約聖書には、子どもが生まれたときにはこのようにしなさいという決まりがいろいろとあります。たとえば生まれて8日目に、割礼を授け名前を付けることが律法には定められているので、イエス様もそのようになさいました。その日、降誕日から8日後の1月1日を聖公会では、「主イエス命名の日」として礼拝をささげています。

 そして40日目です。旧約聖書のレビ記12章には、「出産の規定」というものがあります。少し読んでみたいと思います。

 「妊娠して男児を出産したとき、産婦は月経による汚れの日数と同じ7日間汚れている。8日目にはその子の包皮に割礼を施す」。さらに続きます。「産婦は出血の汚れが清まるのに必要な33日の間、家にとどまる。その清めの期間が完了するまでは、聖なる物に触れたり、聖所にもうでたりしてはならない」。先ほどの7日間と33日を合わせた40日間は、「清めの期間」だというのです。そしてその清めの期間が過ぎたときには、どうするのか。レビ記に続きが書いてあります。「産婦の清めの期間が完了したならば、産婦は一歳の雄羊一匹を焼き尽くす献げ物とし、家鳩または山鳩一羽を贖罪の献げ物として臨在の幕屋の入り口に携えて行き、祭司に渡す」。

 本当であれば、初子、つまり初めての男の子は神さまのものとして、ささげなければいけませんでした。しかしそれを律法で、動物のいけにえでいいよってしたわけです。要は、両親はイエス様を神さまにおささげした、そういうことなんですね。

 さてここまでこの話を聞いてみなさん、どのように思われたでしょうか。マリアもヨセフも、旧約聖書に定められた決まりをきちんと守っている。素晴らしいことだなあ。真面目だったんだ。そうならないでしょうか。それじゃあわたしたちはどうするの。子どもが生まれたら、鳩を捕まえにいかないといけないの。インコじゃだめかしら。いやいや、そうじゃないんですね。鳩を教会に持ってこられても困ります。ここまではあくまでも、旧約に定められた出来事なのです。

 さて、神殿に一人の老人がいました。その名前は「シメオン」です。彼は正しい人で信仰があつく、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なないと告げられていました。そのため彼は、いつも神殿にいたようです。このシメオンに関して、聖書はこのように書きます。一つ目は、「聖霊が彼にとどまっていた」ということ。二つ目は、「お告げを聖霊から受けていた」ということ。そして三つめは、「シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき」という言葉。三つ目の霊には“ ”がつけられていますので、これも神さまの霊、聖霊をあらわしています。

 つまり三度も、聖霊について言及されているのです。今週の箇所でも、この「聖霊」の働きが強調されているんですね。聖霊はシメオンに留まり、メシアに会うまではお前は死なないぞと告げ、そしてイエス様が神殿の境内に連れてこられたときに彼も聖霊に導かれてその場所に向かうのです。

 旧約の掟どおりにイエス様をささげようとしたときに、シメオンという人物が登場しました。聖霊とは、神さまの思いのことです。神さまのみ心が、聖霊となって働いていきます。ということは、神さまの思いは幼子イエスとシメオンとを出会わせること、そしてその両親に神さまのご計画を告げることにあったのです。シメオンは言います。「これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、あなたの民イスラエルの誉れです」と。ただユダヤ教の儀式にのっとって、イエス様がささげられたのではない。万民のためのできごとなのです。

 イスラエルにとっても誉れある出来事かもしれない。しかしこの方は異邦人、つまりすべての人たちを照らす光として来られたのです。そこにはわたしたち一人ひとりも含まれます。神さまはわたしたちをも光で包み込むために、イエス様をお遣わしになった。イエス様はその働きのために、神さまにすべてをささげられたのです。

 この被献日、その漢字が示す通り、「ささげられる」ということが大きなテーマとなります。だからわたしたちはこう思います。「わたしは何をささげることができるだろうか」、「わたしには何ができるだろうか」。これはとても大切な思いです。

 そしてこのことも、しっかりと心に刻んでいきたいと思うんです。わたしたちのために、イエス様ご自身がささげられたということを。今日の被献日の場面もそうです。そして十字架において、イエス様はその身をわたしたちのためにおささげになりました。わたしたちの罪が赦され、わたしたちが歩むことができるように。こんなわたしたちでも神さまの元で憩うことができるように。そのために神さまはイエス様を遣わし、十字架へと向かわされました。それらすべては神さまの思い、わたしたち一人ひとりを愛し、大切にしていきたいという神さまの思いの故なのです。だから、わたしたちは喜びのうちに自分自身をささげることができるのではないでしょうか。わたしたちができること、それは一人ひとり違います。でも、何もできないわけではない。わたしたちには、祈ることができるはずです。

 自分の思いを横に置き、周りの人のため、神さまのために祈る。これだって大きな働きです。いや、これほど大きな働きはないと思います。神さまの思いに応え、これからも歩むことができますように、わたしたち一人ひとりが神さまの器として用いられますように、お祈りを続けてまいりましょう。