2022年7月17日<聖霊降臨後第6主日(特定11)>説教

「必要なこと」

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 ルカによる福音書10章38~42節

 聖公会で洗礼を受けますと、多くの場合、洗礼名というものをいただきます。その洗礼名は牧師や教父母が本人の希望も聞きながら、付けることが多いです。ただし幼児洗礼の場合は本人の意向は聞けませんが、この洗礼名の持つ意味はどんなものでしょうか。わたしたち聖公会には、聖人という考え方は正式にはありません。ただペトロやパウロなどを呼ぶときに「聖ペトロ」、「聖パウロ」と呼ぶことを考えると、カトリックの伝統が聖公会にもかなり影響しているのかな、とは思います。

 さて、大人になって洗礼を受けた方々は少し思い出して欲しいと思います。みなさんはどのように、洗礼名を選ばれたでしょうか。牧師が知らないうちに勝手につけていた、という人もあるかもしれません。自分はこれがいい、と思っていたが、やんわりと「その人にはこんな側面もあってねぇ」と違う洗礼名に変えられたという人もいるでしょう。あるいはこの人物の生き方に共鳴して、このように生きていきたいと思ったということもあるでしょう。

 わたしが奈良に来て、2年3ヵ月が過ぎました。コロナで教会も幼稚園も閉じなければいけなかった間に、わたしは名簿の整理をおこないました。教籍簿というみなさん一人ひとりの記録が教会には備え付けられています。その教籍簿をデータ化しました。そしてどの洗礼名が多いか、調べてみました。

 まず第5位はルツで42名。4位はパウロで44名。3位はエリサベツで50名。2位はヨハネで61名。そして1位はマリアで108名と断トツでした。

 マリアと言いましても、今日の福音書に出てくるマリアではありません。イエス様の母マリアのことです。今日登場するマリアはベタニアのマリアと呼ばれています。長々と洗礼名の話をしてきましたが、なぜこんな話をしたのか。それは今日の二人の登場人物、マルタとマリアに対し、わたしたちはどのようなイメージを持っているのかということを考えたいからです。

 教会ではよく今日の福音書の箇所を読んで、「わたしは忙しくするマルタタイプ」とか、「あの人は静かなマリアタイプね」というように、人を二つのタイプにわけることがあります。人間って血液型もそうですが、そういう分類って好きなんですね。

 大体そういうときに、マルタタイプに振り分けられる人は、厨房によくいたり、いつの間にか草むしりしてたり、お茶を飲み終わる前にお代わり入れてくれたり、何かをしていても次のことを考えたり、人の話を聞いているときもソワソワしていたり、じっとしていることができなかったり。今、みなさんの顔を見渡しながらしゃべっておりましたが、結構たくさんの方がマルタタイプに入るなあ、って思ってしまいました。でもわたしは、そのことをまったく恥じることではないと思っています。なぜならば、マルタタイプと呼ばれる多くの人は、気配りができる人。人のことをとても気にかける人。そのようにも言えるからです。

 そもそも教会という組織に限らず、あらゆる共同体は、マルタタイプの人によって支えられていると言っても過言ではありません。月に一度おこなっている「みんなでごはん」も少しずつ定着してきました。コロナの対策もおこないながらですが、食卓を共にし、いろんな話をしています。結構お腹いっぱいになりますが、参加費は300円だったり、無料だったり。なぜそんなことが可能なのか。それはたくさんのマルタさんがいるからです。自分にできることはなんだろう、これもらったし持って行こう、これみんなと一緒に食べたいし作ってみよう、何も持っていけないけどいっぱい手伝いをしよう。いろんな思いでみんなが集まり、神さまからの恵みを分かち合う。それぞれがそれぞれにできることをし、持っている賜物を生かす。時には静かにしないといけない場面でドタバタしてしまい、ちょっとだけ叱られてしまったり。でもそれでいいんです。

 わたしたちの教会でも、日曜日のたびにお昼ご飯の準備だと言ってドタバタしていた頃がありました。クリスマスやイースターになると、礼拝の途中であっても心は完全に祝会に向かっていたものでした。だって、楽しいからです。人をもてなしたり、もてなされたり。誰かの喜ぶ顔を見ることができたり、しょうもないことで笑い合ったり。でも、それが教会なんです。全員がベタニアのマリアのように、ただじっと座っていたとしたらどうでしょう。牧師は説教しやすいかもしれない。でも教会は果たして活性化するでしょうか。

 ではイエス様はマルタに、何を伝えたかったのでしょうか。一つ、イエス様の言葉に大きなヒントがあります。それは「マルタ、マルタ」という呼びかけです。名前を二度繰り返すというのは、聖書には幾度か出てきます。二度、名前を繰り返して呼ぶ。聖書でそれは、親しみを込めているということを意味しています。イエス様は決して、マルタを叱り飛ばそうとしたのではないのです。「マルタや、マルタ」と優しく問いかけ、やんわりとたしなめる。マルタのすべてを否定しているのではありません。ただ一つだけ、イエス様はこのことだけを伝えたかったのです。

 それは、「マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」ということです。「あなたもマリアのようになりなさい」とは言われていないのです。ただマルタはマリアが手伝わないのを見て、イライラした。イエス様に告げ口した。「マルタや、そこだけは違うよ」、とイエス様は言われたのです。

 奉仕、という言葉があります。教会でもよく使われる言葉です。この教会での奉仕とは、神さまとの関係の中で成り立つ言葉だと思います。つまりこの奉仕の業は神さまに対しておこなうことであって、他の人には関係のないことなのです。他の人に知られる必要も、他の人に褒めてもらう必要もないのです。

 「わたしたちは奉仕をしているのに、あの人ときたら何もしない」。確かにその気持ちはよくわかります。でもそうじゃない。そのようなことで心を乱すのではなく、あなたが今、必要なことをやりなさい。あなたにとって良いと思われることをやりなさい。そういうことなのです。それは人それぞれ、違うことかもしれません。でも、それでいいのです。

 最初に洗礼名の話をしました。奈良基督教会において、ベタニアのマリアという洗礼名を付けた方は10名、31番目の人数でした。それに対してマルタは、37名もおられました。全体の6番目の数です。多くの方が、マルタの働きに共感しているのです。

 マルタ、とてもいいと思います。人のために尽くす姿、とても美しいと思います。でも心が騒ぎ、「何でわたしだけが」という思いが芽生えたならば、あなたの名前を二度呼ばれるイエス様の姿を想像してください。「人のことはどうでもいい。あなたの働きがわたしには必要なのだよ」、そう優しく語り掛けるイエス様の姿に、きっと出会えると思います。