2025年6月1日<復活節第7主日(昇天後主日)>説教

「一つにしてください」

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 ヨハネによる福音書17章20~26節

 今日は復活節第7主日ですが、「昇天後主日」とも書かれています。まずこの「昇天」という言葉について考えていきたいと思います。

 キリスト教では誰かが亡くなったときに、逝去や帰天、これは天に帰ると書きます、あるいは召天といった言い方をします。ただしこの召天は召使の「召し」という字と天、つまり天に召されるという意味です。つまりどうでしょう。わたしたちが神さまの元に帰って行くのは、神さまに呼ばれるというイメージになるのでしょうか。この地上での生を終え、「もういいよ、帰っておいで」という神さまの温かい言葉とみ手に包まれる、そういう感じだと思います。

 しかし週報などに書いてあるイエス様の昇天、これは「天に昇る」という漢字が用いられています。イエス様がご自分の思いで天に昇っていかれた、そういうことを意味しているのだろうと思います。

 聖公会では毎年、教会暦、つまり教会の暦に合わせて聖書が読まれ、イエス様の生涯だけではなく、神さまのご計画や導きを思い起こしていきます。その中で自分はどう関わっているのか、そこにどう組み込まれていくのか、感じていくわけです。

 イエス様が復活なさった復活日から40日後、5月29日の木曜日が昇天日となっています。40日という数字が示すように、この日はとても大切な日です。40という数字で思い出すのが、大斎節、レントの期間であり、またイスラエルの人々が荒れ野をさまよった40年、イエス様が誘惑を受けた40日40夜、そのようなものを思い起こします。イエス様は復活され、40日間にわたって弟子たちの前に現れ、神の国について話されたと聖書には書かれています。その40日というのは物理的なその期間という意味もあるでしょうが、完全数としての40日、つまり十分な時間、満たされた時間ということも意味していると思います。

 その期間にイエス様は、復活のみ姿を人々に示し、そしてご自分が語ってきた教えを思い起こさせました。だからわたしたちも先週までの復活節の間、部屋で震えていた弟子たちやトマス、また漁に出かけていたペトロに復活のイエス様が現われた場面を心に留め、そしてイエス様が最後の晩餐のときに語られた言葉に耳を傾けていったのです。つまりわたしたちは、2000年前と同様、復活のイエス様がわたしたちに手を差し伸べておられることに気づき、神さまが与えられた愛の言葉を聞いていくのです。そしてその中で、イエス様が天に昇られたこと、神さまの元に昇っていかれたそのことを覚えていくのです。

 その中で、今日の福音書の言葉に耳を傾けたいと思います。今日読まれたヨハネによる福音書17章ですが、17章全体が一つのかたまりになっています。そしてその内容は何かというと、イエス様の祈りがすべてです。先週わたしたちはヨハネによる福音書14章にあるイエス様の説教、いわゆる告別説教を聞きました。告別説教は16章まで続き、そして17章に入るとイエス様は長い、長いお祈りをされます。告別説教の中では自分はまもなくいなくなるから、あなたたちはこうありなさいと語られていました。「互いに愛し合いなさい」などという言葉と共に、「あなたたちに聖霊を与える」という約束もされました。

 そして17章で、イエス様は祈るのです。それは目の前にいる弟子たちだけでなく、今、ここにいるわたしたちのためにもイエス様は祈るのです。すべての人のためにとりなすイエス様の姿が、ここにあるのです。

 わたしたちがお祈りするときに、お祈りの要素というのがあるのをご存じでしょうか。聖公会ではあまり自分の言葉で祈ること、いわゆる自由祈祷をする機会が少ないのであまりこういう話はしませんが、祈祷会などを頻繁におこなう教派ではそのような学びをすることもあります。たとえば最初に「呼びかけ」をしなさいっていうんですね。「天の神さま」だったり、ストレートに「神さま」だったり。プロテスタント教会では神さまの代わりに「父よ」という言葉を用いることも多くあるようです。そしてその次には、神さまを賛美しましょうね、と続いていきます。わたしたちはともするとお祈りのときに、いきなり「あれしてほしい」、「これしてほしい」と自分の願いを言ってしまいがちです。でもその前に、「神さまのみ名を賛美します」とか、「み名の栄光をほめたたえます」とか、神さまのことを賛美しましょうということです。別に神さまをおだてて、ということではなく、神さまにまず感謝を示しましょうよ、ということなのです。

 そしてお祈りの中身に入っていきますが、自分のことばかりではなく誰かのために、世の中のために祈るとか、自分の思いだけを優先するのではなく御心のままにという思いを入れていくとか、あまりクドクドならないように祈るとか、そういうことに気を付けましょうということも言われます。

 そして最後です。「イエス様のみ名によって」、と最後に語って、アーメンと祈るのです。イエス様の名によって、そのように祈ることが許されているというのが、わたしたちの祈りだということです。イエス様は、神さまとわたしたちの間の架け橋になってくださるのです。神さまとの間にある深く大きな溝を埋め、その間でとりなしてくださる。そのことをイエス様は、この祈りの中でわたしたちに示されたのです。

 そしてこのお祈りの中には、特徴的な言葉が出てきます。それは「一つとなる」ということです。神さまとイエス様が一つであるように、すべての人が一つになるようにとイエス様は祈られます。「一つになる」とはすべての思考やおこないがすべて一緒になるということではありません。ぶどうの木に枝が張るように、そしてその枝がみな違う方向に向けて生き生きと育つように、わたしたちが神さまにつながれて、それぞれ生きていくことができるようにと、イエス様は祈られます。

 その神さまとの間をイエス様がとりなしてくださる、神さまとわたしたちが結びつく手助けをし続けてくださるのです。来週、わたしたちは聖霊降臨日を迎えます。聖霊によってわたしたちは強められ、導かれます。聖霊は弁護者としてわたしたちを支えてくださいます。

 それは神さまとわたしたちもまた、一つとなるためです。神さまの元でずっと、わたしたちが憩うことができるためです。そのために神さまは、イエス様の十字架、復活、昇天、聖霊降臨という出来事を、わたしたちに与えてくださっているのです。

 その恵みを感じ、心から受け入れていきたいと思います。神さまがわたしたちを愛し、手を差し伸べ続けておられることを、覚えていきましょう。そしてその喜びを、一人でも多くの方々と分かち合うことができればと思います。