2022年8月14日<聖霊降臨後第10主日(特定15)>説教

「平和ではなく分裂」

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 ルカによる福音書12章49~56節

 わたしたちはどうして教会に集うのでしょうか。明日、8月15日はいわゆる終戦記念日です。8月15日が近づくと、テレビなどでは戦争の悲惨さを伝える映画やドラマが流され、様々な場所でも平和を求める祈りや集会が開かれます。今ここにいるわたしたちも、どうでしょうか。ひとそれぞれ、その方法や考え方は多少違っていたとしても、平和を求める心は共通しているのではないでしょうか。礼拝に来るのは平和であって欲しいから。心に安らぎが欲しいから。そういう思いを持たれる方も、少なからずおられると思います。

 その中で今日の福音書が読まれるときに、わたしたちの心はざわめいてしまうのではないでしょうか。

 今日のこの説教に向けて、この聖書の言葉と向き合っている中、いろんな思いが心に浮かびました。主日にわたしがこの説教台に立つのはかなり久しぶりです。7月17日以来ですから、ほぼ一ヵ月ぶりです。7月24日はコロナの陽性になった次の日、31日は元気だったけど10日間の隔離期間が終わっていなかったため、そして8月7日は北小松でキャンプをしていたため、日曜日にこの場に立つことができなかったわけです。

 キャンプは仕方ないとしても、隔離期間というのが精神的にもかなり辛かったです。隔離という言葉自体には、このような意味があります。「へだたること。へだて離すこと」。そしてもう一つ、こういう意味です。「伝染性の病原体の蔓延を防ぐためなど、他から引き離して接触を避けること」。「他から引き離して接触を避ける」、この言葉と「分裂」というイエス様が今日語った言葉とが、どうしてもリンクしてしまうんですね。ではこのコロナによる状況は、イエス様が望んでいたことなのでしょうか。

 今日のこのイエス様の言葉は、弟子たちに対して語られたものです。エルサレムに向かうことを決意され、さらに二度もイエス様ご自分がそこで十字架につけられることを伝えられ、歩みを続けている途中でした。しかし弟子たちの心には、イエス様の言葉はきちんと伝わってはいなかったようです。イエス様が十字架の話をしても、ペトロは「そんなこと言ってはいけません」とイエス様の言葉をさえぎり、またそのすぐあとで「誰が一番偉いだろうか」と論じ合う弟子たち。そのような状況でした。ある意味、「平和」な弟子たちの姿がそこにはあります。

 またイエス様の周りに現われるファリサイ派や律法学者などといったユダヤ人たちは、イエス様の言動を恐れていました。彼らは自分たちの周りの秩序が、イエス様によって混乱させられていることに不快感を示していました。彼らは自分たちの中での「平和」を犯されたくはなかったのです。彼らの求める「平和」とは、自分たちが平穏無事に暮らせること。静かな日常の中で、争いごとなく過ごせること。そのために、邪魔な人たちを排除していったのです。民族が違う、宗教が違う、職業が違う、性別が違う、年齢が違う。

 そして律法を守ることのできない人を「汚れた人」、「罪人」と定め、自分たちの共同体から排除していった。その結果、自分たちの周りにはいわゆる「清く」、考え方や思想の近い人たちしかいなくなる。だから争いごとが少なくなっていく。これが彼らの求める「平和」だったのです。

 しかしどうでしょうか。わたしたちの考える「平和」も、よく考えてみると、この昔のファリサイ派の人などユダヤの人たちの考え方に近くなることはないでしょうか。世界中で今も起こっている戦争や紛争は、基本的には自分たちの「平和」を守るためにおこなわれていることが多いです。自分たちの利益や国益を最優先させるために、多少の犠牲には目をつぶる。というよりも、その犠牲を払うのが自分たちとは遠く離れた人であれば、どうでもよいのです。自分たちさえ豊かであれば、自分たちさえ笑顔であれば、それでいい。数年前に「なんとかファースト」という言葉がよく使われましたが、その考え方も同じなのです。

 イエス様は、「自分たちの平和」の中で生きようとする人たちに、「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか」と言われました。イエス様は、自分たちだけがよければそれでいいという平和、つまり自分たちのための平和を壊そうとされたのです。イエス様が求めておられたのは、神さまの目からみた平和です。主の平和です。神さまの前で穏やかになり、共に生きることです。そこには壁も、隔たりもありません。すべての違いを超えて、お互いを受け入れる。そのために、「自分たちだけの平和」は一度取り壊す必要があったということなのかもしれません。

 コロナによる隔離期間の間、様々なことを考えました。そしていろんなことに気づかされました。わたしは牧師になってから、主日をお休みしたことはありませんでした。牧師として遣わされた以上、絶対に主日は空けてはいけない、ずっとそう思っていました。でもそれがすべてではないことに、今回大いに気づかされました。隔離によってもたらされたのは、分裂でしょうか。そうではなかったのです。牧師がコロナで隔離されたことによって、教会はバラバラになったでしょうか。決してそんなことはありませんでした。毎週なんとなく守ることができていた自分たちの中での平和な時間は、そこにはなかったかもしれません。しかし共に祈り、共に助け合い、共に気遣いあうことで、そこには新たな平和、神の平和が訪れたのではないでしょうか。

 わたしは、なぜ感染経路がわからない中、急にコロナに罹患したのか。その意味に気づかされました。それは、神さまのみ心です。コロナにかかることは、とても辛いことです。体はしんどいし、自由は奪われるし、後遺症にも怯えないといけない。

 でもその中で、わたしたちは気づかされました。普段の平和が壊されたときにこそ、わたしたちの目はより外の人に向き、わたしたちの心はより遠くの人のことまでおもんばかり、そしてわたしたちの手の業はそれまで関わろうとしなかった人のところにまで届けられていくのです。

 それができるのは、わたしたちの真ん中にイエス様がいるからです。十字架に死に、復活されたイエス様がわたしたちと共に生きてくださるから、わたしたちの小さな分裂の先には、大きな平和が待っているのではないでしょうか。

 イエス様は「わたしが地上に平和をもたらすために来たと思うのか。そうではない。言っておくが、むしろ分裂だ」と言われました。しかしイエス様の思いは、そして神さまのみ心は、そこで終わりませんでした。十字架での死によって血を流すことで、分裂から和解へと導かれたのです。

 わたしたちも、その恵みにあずかり、共に「主の平和」を目指してまいりましょう。自分たちだけの安らぎではなく、自分は違う人と手を取り歩むこと。それが神さまの望まれる「平和」なのです。