「ただ中に立たれるイエス様」
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ルカによる福音書6章17~26節
今読まれた福音書は、「平地の説教」と呼ばれるものです。マタイ福音書5章から7章にかけて、「山上の説教」と呼ばれる箇所があります。そこには、いくつかの違いがあります。一つは平地と山上という場所の違いです。マタイ福音書では「イエスはこの群衆を見て、山に登られた」と始まっていますが、今日のルカ福音書では「イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった」という始まりになっています。平地と山上、ただ場所が違うだけじゃないかと思うかもしれません。しかしそこには、その高低差以上に深い意味が隠されています。
そしてもう一つ違うところは、「あなたがたは不幸である」という人々が挙げられているところです。マタイ福音書にはそんな人たちは登場しません。みんな幸せです。しかしルカ福音書では、こういう人たちは不幸であると、明確に書かれているのです。
「富んでいるあなたがた」、「今満腹している人々」、「今笑っている人々」、「すべての人にほめられるとき」、とそのような人たちは不幸であるということです。どうでしょうか。これらの言葉を聞いて、みなさんはどう思われるでしょうか。
マタイ福音書の山上の説教には、様々な「幸いな人々」が出てきました。わたしたちはその箇所を読むときに、自分はどこかにあてはまっていないかを考える。あるいは誰かそのような人を思い浮かべる。しかし今日の箇所では、わたしたちはどちらかの選択を迫られているようにも感じるのです。あなたは貧しいのか、富んでいるのか。あなたは飢えているのか、満腹しているのか。あなたは泣いているのか、笑っているのか。あなたは憎まれているのか、ほめられているのか。あなたは幸いなのか、不幸なのか、どちらなんだと問われているのです。
今日、教会では堅信受領者総会が開かれます。教会の様々な課題について知恵を出し合い、また神さまのみ心を求めながら、これからの教会について話し合っていく大切な時間です。様々な課題の多くはネガティブなものです。信徒数、献金額の減少、ハード面の課題、教会はこれからどうなっていくのか、教区はどうなっていくのか。手探りで歩んでいく中で、自分たちの道を見つけようとする。でもそれって、確かに大切なことではありますし、議論しなければならないことです。しかしその目的というところがあやふやになってしまったら、この総会自体がとてもつまらないものになってしまうと思うんです。
教会とは、神に生きるすべての人たちの集まりと言われます。建物を指すのではありません。わたしたちが神さまに生かされ、イエス様に従いながら歩んでいるならば、教会のこれからの話合いは、それこそ楽しいものになると思いますがどうでしょうか。神さまのみ旨に従い歩んでいくんです。宣教の器として、わたしたちはどう用いられていくのか。それって辛いことでしょうか。ウキウキすることなのではないでしょうか。たとえば「現在堅信受領者の数を見直す」という協議を委員会ではおこなっています。なぜそのようなことをするのか。「もう来てない人は、名簿から外してしまえ!」ということではないんです。そんなことを教会委員会が考えているわけでも、牧師が実行しようとしているわけでもありません。
そうではなく、現在の教会分担金を、身の丈にあったものにしましょうということです。この10年、教会に来られている方の数はどうでしょうか。いつも礼拝に来られていたような方が、何人も天に召されました。ご年齢やお体の具合で物理的にこの礼拝堂に来ることの出来なくなった方、またその回数が減った方もおられます。当然それに伴い、教会の収入も減少しています。しかし教区に支払う分担金は減るどころか、増えている。そこで他の教会がそうされているように、現状に見合った現在堅信受領者数を報告しましょうということなのです。
で、ここが大事なところです。ではなぜ、その教区へ支払う額を減らそうとするのか。それは、わたしたちの教会の宣教に用いるためです。今年の決算を見ると、なかなか宣教費を増額して、という話はできないかもしれません。でも、教区の中で、こんなに新しい人が来たり、幼稚園の子どもたちや保護者が気軽に来たりすることができる教会はここぐらいです。じゃあこれから先、どうやったらその人たちと共に歩んでいけるのかなのです。
いろんなアイデアが出ると思います。こんなことをしたら、こういう人たちと一緒に交わることができるかもしれない。こういう人たちを呼ぶことで、こんなことができるかもしれない。そのために、わたしたちの大切な献金を用いる。その宣教の業のために、わたしたちは力を入れていきたい、そういうことなのです。
今日の福音書、イエス様は平地、つまりみんなの真ん中に立ち、「あなたがたは」と話されました。そこには富んでいる人もいれば、貧しい人たちもいました。笑っている人もいれば、泣いている人もいました。マタイ福音書のように、山の上から、手に届かない存在である神さまのように、語りかけたのではない。いろんな人が混ざり合っているそのただ中に立ち、語られたのです。
ルカによる福音書は異邦人教会、つまりユダヤ人以外の人たちに向けて書かれました。彼らはいろいろな人たちがいる中で、イエス様の言葉を聞いていました。イエス様は、貧しい人には「あなたは大丈夫」と語られ、豊かな人には「あなたはこのままではダメだ。貧しい人にも目を向けなさい」と諭されたのです。
決して誰かを罰し、誰かのことを切り捨てるために、イエス様は語られたのではありません。きっとイエス様の言葉を聞いた人々は、考えたと思います。「じゃあ、どうしよう」って。そして、自分とは違う人たちの存在に気づき、共に支え合いながら生きることを選択しました。その様子は、使徒言行録にも書かれています。
では、わたしたちはどう歩むべきなのでしょうか。わたしたちの周りには、いろいろな人たちがいます。周りだけではなく、わたしたちの中にも様々な人たちがいます。その人たちを否定するのではなく、受け入れることが大切なのではないでしょうか。
誰かの批判をすることは、たやすいことです。自分の正義に立ち、人を裁くことを心地よいと思う人もいるでしょう。でもどうでしょう。わたしたちは誰かに石を投げることができる、罪なき者なのでしょうか。本当であれば、わたしたち一人ひとりが石を受けなければならないのに、わたしたちの間に立ってその石を一身に受け止めてくださったイエス様。そのイエス様の歩みにわたしたちも従って行きたい。イエス様と共に歩む喜びを、多くの人に伝えて行きたい。
そのことを確認し、また新たな一年に向けて進むのが、信徒総会の本来の目的なのだと思います。わたしたちの働きが神さまのみ心に適いますように、また良い話し合いがおこなわれますように、お祈りいたします。