「あなたの隣人」
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ルカによる福音書10章25~37節
律法の専門家はイエス様にこのように問いかけます。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」。ここだけ聞いているとイエス様に教えを乞うているように聞こえますが、聖書はこうも書いています。「イエスを試そうとして言った」と。律法の専門家ですから、イエス様の教えの中におかしなところを見つけようとしたのでしょうか。それとも自分に有利な言葉を引き出そうとしたのでしょうか。そんな律法の専門家に対して、イエス様はこう言われます。「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」。
「わたしは神を愛し、となり人を愛するように唱えています」、そう答える律法の専門家に対し、「じゃあそのようにおこないなさい」とイエス様は答えられます。でも彼はさらに聞くのです。「そのとなり人って一体誰ですか」。彼は自分を正当化しようとして、このように言いました。自分は律法の専門家として、律法が定めたとおりに神さまを愛し、となり人を愛しているはずだ。その思いはあったでしょう。しかし彼が思うとなり人の枠組みを確かめたい、そう思ったのかもしれません。その彼に対してイエス様が語られたのが、「良きサマリア人」の物語です。
わたしは、教会から随分長いこと離れていたことがありました。ある時、手術をしなければならないことがあり、入院をすることになりました。普段は面白おかしく過ごしてきたつもりでしたが、いざ入院をすると、すごく孤独を感じました。たった一週間のことでしたが、4人部屋の中で自分のところにだけ誰も来てくれない。一人ぼっちでした。とても寂しい思いの中、すがりつくように久しぶりのお祈りをしたときに、イエス様はずっとそばにいてくれたのだというポカポカした温もりを感じ、退院したらまた教会に通おうと心に決めました。退院の朝、エレベーターに向かうわたしを車いすで追いかけてくる人がいました。同室で、夜になるといつも苦しそうにしていたおじいさんでした。おじいさんはわたしのそばにやって来て、優しく声をかけられました。正直、ビックリしました。同室とはいえ、名前も何も知りません。それどころか、会話もしたことなかったのです。その病室には簡単なついたてしかありませんでしたから、いつもボーっと天井を見上げているわたしの姿を見ておられたのかもしれません。
そのおじいさんは、通り過ぎなかったのです。自分とはまったく関係ない人に対し、目を向け、関わる。聖書の物語のように偶然の出会いです。ゆきずりの行動です。でもわたしは確かにそのおじいさんの一言に癒され、そして生かされています。
聖書に出てくるサマリア人は宿屋に行ってその人を介抱し、2デナリオンを宿屋の主人に渡しました。2日分の賃金に相当する額です。2万円と考えてもいい金額です。彼の行動は、大げさなものではありません。自分ができることをした。壁があり、対立していた人に対して、憐れんだということなのです。
わたしたちは、この物語をどう読むべきでしょうか。二つのことをみなさんにお話ししたいと思います。まず一つ、わたしたちはこの物語を通して、自分をいつも正当化してしまう、その姿に気づかないといけないと思います。律法の専門家が言った、「わたしのとなり人とは誰ですか」という言葉。この言葉には、隣人の範囲を限られたものにしたいという思いが見て取れます。実際に当時のユダヤ人は、同胞の清い人たち、つまり罪を犯さず律法を守っている人だけを愛せばよいと決めていました。罪人、徴税人、娼婦、異邦人とは関わる必要がないと考えていた。つまり愛の対象ではなかったのです。
わたしたちもあるでしょう。この人は愛することができるけれども、この人はどうも、ということが。わたしにだってあります。わたしたちは無制限の愛に生きることができないのです。だから何とか制限を付けて欲しいのです。こういう人だけ愛しなさいと。でもそれではダメなのです。自分と同じような人だけを愛し、自分と同じような境遇の人だけが愛の対象になって欲しい。そういうことではないのです。すべての人が、というよりも強盗に襲われた人にとって一番遠く離れていたような人が手を差し伸べた。そこに立たないといけないのです。
そしてもう一つ。この物語を通して、覚えておきたいことがあります。それは、聖書は人を裁くためにあるのではないということです。こういう物語を読むと、わたしたちはすぐ他の人のことを考えてしまうのです。あの人は祭司やレビ人みたいに普段は偉そうに言っているけど、見捨てているよね、とか。教会はこのような愛にあふれていない、とか。これだけははっきり言っておきます。聖書は人を裁くためにあるのではありません。聖書は人を愛するために与えられたものです。わたしたちに与えられた神さまからのラブレターです。わたしたちが愛され、愛するためには何が必要なのか。わたしたちはどう生きるのか。そのことを聖書から読み取るのです。
このたとえ話を聞いた後の、「だれが追いはぎに襲われた人のとなり人になったと思うか」というイエス様の問いに対し、律法の専門家は答えます。「その人を助けた人です」。それに対し、イエス様は言われるのです。「行って、あなたも同じようにしなさい」。他人がどうのこうのではありません。教会がどうということでもありません。「あなた」もそうしなさい。「あなた」がどうするかが大切なのです。これは神さまと「あなた」との関係の中で語られる物語なのです。
サマリア人は、追いはぎに襲われた人のとなり人になりました。その後ずっと彼のそばにいたわけではありません。名前を教え合った訳でもなく、その後二人の間に交流があったこともないでしょう。でも確かに、サマリア人は追いはぎに襲われた人のとなり人となったのです。そして以前、わたしに関わってくれたおじいさんも、わたしのとなり人となってくれました。顔もほとんど忘れてしまいました。でも今でも、心の支えとして生き続けておられます。
わたしたちも思い返せば、心が傷ついたときに、様々な場所で、様々な人に助けられたことがあると思います。いろんな人があなたのとなり人になってくれたことでしょう。そして何よりも神さまは、わたしたちを憐れみ、救いの手を差し伸べてくださっています。そのときの痛みを知っているから、介抱されたときの喜びを知っているから、誰かが「となり人」として支えてくれたことを知っているから、わたしたちは違う誰かの「となり人」となれるのです。小さな愛でいい。その愛のわざを誰かに注ぐときに、わたしたちはその人の「となり人」となるのです。
わたしたち一人ひとりの小さな業が、神さまの愛を伝えるものとなる。こんなに大きな喜びはないと思います。その愛の中で、わたしたち一人ひとり生かされ、歩んでまいりましょう。