2019年10月20日〈聖霊降臨後第19主日〉パイ司祭 説教

どのように祈るべきでしょうか
 ルカ18:1-8

  司祭 マイケル・パイ
  奈良基督教会にて

 わたしはしばしば、他の方にあなたはどのように祈るのか、と尋ねます。そして実はわたし自身も同じことを自分に問いかけるのです。祈りにはたくさんの方法があります。それらについて折々に考えてみるのはよいことです。
 わたしたちはどのように祈ればよいのか? 何のために祈るべきか? 何について祈ったらよいか? ある事柄のために祈るべきか? けれどもほかのことについてはどうでしょうか? 声を出して祈るのがよいのか? あるいは黙って祈るのがよいか? 一緒に祈るのがよいか。ひとりで祈るのがよいか。子どものように祈るべきか? あるいは子どものようにではなく祈るようにすべきか? わたしたちの祈りが枯渇するように思えるときはどうなのか? 祈ることと、ただあることを願い求めることとの違いは何か? だれかが聴いていてくれるのか? 宇宙の大きな沈黙の中に、だれかが存在するのか? わたしたちが神と共に歩むなら、神はどこにおられるのか? もし神が人間的存在ではなく、さらに超人間的存在でもないなら、どのようにして神は聴くことができるのか?
 祈りについてはこのようにたくさんの疑問があります。祈りについて考えることによって、わたしたちはわたしたちの信仰について、(私たちの知っている)神と命の(真の)本質について、もっとも深い問いに導かれるのです。  

 今日の福音書の物語は、祈りについてまさに一つの助言を与えてくれます。「諦めるな」。そこにはわたしたちの祈りに対して何の答もないように思えるかもしれません。しかしそこには答がない、ということではけっしてないのです。この物語の中の人間の裁判官は、そのやもめに対しても、彼女の「裁いてください」という訴えに対しても、心をとめませんでした。実際、彼女の訴えが何であったか、また彼女が何を期待したのかさえ、語られてはいません。ともかくも彼女はひどい目に遭わせられて、正しい裁きが与えられることを願いました。その裁判官は、彼女のしつこさにまったくうんざりさせられました。それで彼は、何はともあれ彼女が立ち去ってくれて自分を煩わせないように、ただある種の決定を下したのです。
 神はその裁判官のようではけっしてありません。人間の裁判官は、この場合、悪い裁判官です。彼は気まぐれで、自分自身の都合のために決定を下したのです。それとは対照的に、神は信頼すべき方(かた)です。神は神の選ばれた人たちのために必ず裁きをもたらしてくださるでしょう──そのように語られています。神の選ばれた人たちとはだれでしょうか? 特別に選ばれた人たちのことのように聞こえますが、しかしそうではありません。それは神の国に入ることを願うすべての人びとを指します。彼らは、(マタイの言葉では)「まことのイスラエル」として選ばれた人たちすべてのことなのです。これはすべての人に開かれた普遍的な提供(呼びかけ)です。神の国に入ることを願う人たちとは、そこで言われているように、昼も夜も神に叫び求めている人たちです。わたしたちがすべきことはこれです。その点で、わたしたちはこのやもめの例に倣(なら)うことができます。この意味で(今日教えられるのですが)、わたしたちの祈り、神へのわたしたちの応答は、声に出しても出さなくても、やめることなく続くべきです。諦めるな!

 人びとはあらゆる種類の事柄のために祈ります。教会だけではありません。日本の神社でもお寺でも、多くの人々が異なったさまざまなことのために祈ります。非常に多くの場合、彼らは彼ら自身と彼らの家族のために祈ります。彼らは健康のために祈り、安全と交通のために祈り、試験の成功のために祈り、良い結婚のために祈り、そのほかたくさんのことのために祈ります。自分たちが願うあらゆることのためです。これは悪いことではありません。そして人びとが他の人びとの健康と幸せのために祈るなら、それは良いことです。あるいは彼らはすべての人の健康と幸せのために祈っているかもしれません。わたしたちが世界の平和のために祈るときのように。実際、わたしたちクリスチャンもまた、わたしたちの生活に関係する多くのことのために祈ります。安全のため、成功のため、戦争の終結のため。また癒しのため、さらには奇跡さえ求めて祈ります。  

 けれどもこれはただ祈りの一つのレベルです──何か(のこと)を求めるというのは。わたしたちは祈りについて別の仕方でも考える必要があります。いずれにせよ、わたしたちが何かを求めて祈るからといって、それがいつも叶(かな)えられるわけではないことをわたしたちは知っています。ある人は子どもが試験に合格するように祈るかもしれません。さらには神社に行って、ご利益(りやく)があると思えば!お金を出すかもしれません。しかし「カミ」はそれを聞いてくれるでしょうか? ある人びとは、お金を出せば願いが叶うように考えます。あるいは、たとえば、わたしの足の痛みがなくなるように祈るかもしれません。しかしそうなるとはかぎらない。そうなるかもしれないし、ならないかもしれません。わたしたちはわたしたちの祈りを違うレベルに引き上げなければならない、とわたしは信じます。どうすればいいか? 端的に言えば、それは、わたしたちの関心を神のみ手に移す、ということだと思うのです。  

 主の祈りを思い出してみましょう。そこにはただ一つだけ実際的な求め、あるいは祈願があります──「わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください」。世界には実際に日ごとのパン得られない人びとがいます。そこではこの祈りは現実的な意味を持っています。しかしわたしたちの場合、日本では、皆食べ物がありますから、これを祈り求める必要はほとんどありません。ありがたいことです。それですからわたしたちが「わたしたちに日ごとの糧を今日もお与えください」と祈るとき、日ごとの糧を得るのに困っている他の人たちのことを考えたいと思います。そしてわたしたち自身の場合、それを感謝として心にとめたいと思います。あらゆる祝福に対して感謝の思いを持つことはたしかに良いことです。しかし、主の祈りの他の部分はまったく実際的なものではありません。それらはすべて、主なる神とわたしたちと、他の人々とのことに関わるものです。こうしてわたしたちは、イエスさまご自身から、祈りが何よりも霊的な事柄であることを学びます。  

 今日の福音書の最後、8節に非常に特別な言葉(修辞学的問い)があります。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」これは新約聖書の中のいわゆる「人の子」という言葉の一つです。「人の子」という言葉は、わたしたちの目を未来に向けさせます。この表現は、イエスを、苦しみと悪に勝利する、力ある宇宙的存在として示します。わたしたちが「彼が再び来られる」と言うとき、わたしたちは「終わりにはあらゆることが正しく整えられる」という希望と信仰を表現するのです。神は最後には裁き(正義)をもたらされるだろうと。この希望がなければ、わたしたちは途方にくれてしまいます。最後はよくなるだろうとは思えないこともしばしばあります。神の国は即座に、自動的に実現するのではありません。わたしたちは神の国を求め、そのために働き、そのために祈ることが必要です──「(あなたの)み国が来ますように」と祈るように。またこの意味で、イエスがわたしたちに教えられたように「(あなたの)み心が天に行われるとおり地にも行われますように」とわたしたちは祈ります。  

 いずれにせよ、イエスは神の国の到来を宣べ伝えておられました。そして何が起こったでしょうか。イエスの道は十字架に至りました。わたしたちにとっても、現実はしばしば困難に見えます。戦争があり、台風や地震のような大災害があります。悲しいこと、悪いことがあります。わたしたちの家族の生活の中にも失望、心配があり、病気や体の衰弱があります。それで主の祈りから離れて、わたしたちはどのように祈るべきでしょうか? 何という言葉にすることができるでしょうか?
 聖パウロはわたしたちに、聖霊がみずからわたしたちの弱さを助けるために来てくださると教えます。パウロは言います。「わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。」(ローマ8:26-27)。ですから、どのように祈るべきか心配することはありません。聖霊が、わたしたちの心と思いをとおしてわたしたちのために語ってくださるのにお任せしましょう。こうしてわたしたちは、神の意志に、そして神の国の約束にわたしたち自身を明け渡すことができるのです。  

 福音書(7節)にこう言われていました。「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」 これは、やめることなくわたしたちは祈らなければならない、という意味です。どのようにしてそれができるのでしょうか? どのようにしてわたしたちはやめることなく祈ることができるのでしょうか? わたしたちはしばしば他のことについて考えなければなりません。どのようにしてわたしたちはやめることなく祈ることができるのでしょうか? 人びとは時々言います。「神さまと共に歩む」と。それは、すべてが、夜も昼も、昼も夜も、神の憐れみ深いみ手の中に置かれると信じて生きていくことを意味します。これが祈りのもっとも深いあり方です。祈りましょう……