2021年9月5日<聖霊降臨後第15主日(特定18)>説教

「開け」

YouTube動画はこちらから

マルコによる福音書7章31~37節

 今日の福音書の中でイエス様がなさったことについて、人々は驚きの声をあげました。今日の箇所は、イエス様がわたしたち一人ひとりに、どのように関わろうとされているのかを伝えています。

 聖書を読むときに、わたしたちは登場する人に自分を重ね合わせることがあります。弟子の内の一人であったり、イエス様に何かを願う人であったり。今日の箇所であれば、耳が聞こえず舌の回らない人にまず、自分を重ね合わせたくなるでしょう。でも今回はあえて、「人々」、「群衆」に焦点を当てたいと思います。

 今日の物語のきっかけは、その「人々」が作りました。イエス様はティルスを去り、シドンを経て、デカポリスを通り抜けてガリラヤ湖に来られたとあります。ティルスもシドンもデカポリスも、いわゆる「異邦人」が多くいる町です。

 そのイエス様の行動を知った人々の反応は、二つあったと思います。一つは「けしからん」というもの。先週もファリサイ派や律法学者が来て、汚れているだのどうのと、イエス様に言ってきました。外国に行って異邦人と話をしたり食事をしたりすること。彼らからしたら、汚れの代表的なものです。汚れキングです。そんな場所に行って、ノコノコと帰って来て、どうなっているんだ、イエスという男は何を考えているのだ。この反応が一つ目です。

 もう一つ、それは「イエス様はそんなところまで行ってくれるんだ」という反応ではないでしょうか。イエス様がそこで何をされてきたのか、聖書の中には書かれていないことでも、人々の耳には入っていたことでしょう。人々が遠ざけ、忌み嫌っていた人たち。汚れているという烙印を押され、人々から無視されていた人たち。そういう人と共におられた。ガリラヤのカファルナウムでもそうでした。罪人や徴税人と食事をし、娼婦や病人に手を差し伸べ、子どもたちを抱きかかえていく姿。

 その姿を知っていたから、人々は今日の物語の始まりを告げる行動に出たのです。その行動とは、「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」というものです。

 耳が聞こえず、舌が回らない。そのような状況になっても、肉体労働をすることは可能かもしれません。単純な作業を黙々とこなし、その日一日食べるものを手に入れることはできるでしょう。でも、人々からはこのように思われていました。「お前がそんな姿になったのは、自業自得だ。神さまに見捨てられたんだ。しんどい生活も、みじめな毎日も、みんなお前がまいた種だ」。そう言って、みんな指をさして笑うのです。

 でも、そんな彼の元に、救いの手が差し伸べられたわけです。その手は誰が差し伸べたのか。イエス様でしょうか。最終的にはそうでしたが、まず手を差し伸べたのは、人々でした。名前も書かれていない、「人々」とだけ書かれた彼らが、耳が聞こえず、舌が回らない彼を、イエス様に会わせようとしたのです。

 わたしたちは、その「人々」の一人として、この物語に接していきたいと思うのです。イエス様のこれまでの働きを耳にし、またイエス様に出会った人の話を聞いた。そして自分自身も変えられ、次は誰かのためにイエス様に働いてほしいと求める。「この人に手を置いてやってください」と心から願う。その姿を心に留めていきましょう。

 わたしたちがイエス様の元に連れていく人たち。それはどのような人たちなのでしょう。聖書では、耳も聞こえず、舌が回らない人が連れて来られました。耳が聞こえない。それは神さまの呼びかけに素直に反応できない、そんな人なのかもしれません。神さまはずっと呼びかけています。でも何かが邪魔をして聞こえないということなのでしょうか。舌が回らない。それは神さまから与えられた素晴らしいお恵みを感じることが出来ずに、感謝できない、そんな人なのかもしれません。神さまはあふれんばかりのお恵みをくださいます。でもそれが心に届かずに、「神さま、ありがとう」と賛美することができない、そういうことなのでしょうか。

 そう考えてみると、人々にとって、耳が聞こえず、舌が回らないその人は、以前の自分なのかもしれません。イエス様と出会い、手を差し伸べてもらえたことで、聞こえるようになった。語れるようになった。

 でも同時に不安もあります。本当に自分はこのままでいいのだろうか。イエス様は今もそばにいて、手を差し伸べてくれているのだろうか。その思いは、わたしたち一人ひとりの思いでもあるのです。

 イエス様は、耳が聞こえず、舌が回らないその人を群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられます。そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われました。

 イエス様はその人に、深く、深く、関わられたのです。そしてその人は耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになりました。

 わたしたちは何度も、その奇跡を目撃してきました。何人もの人たちがイエス様に出会う、そのきっかけをわたしたちは幾度となく、作ってきたはずです。そしてたくさんの方がイエス様によって、耳も、口も、目も、そして心も開かれていきました。

 教会の大きな働きは、この名もない「人々」の一人になることです。「この人に手を置いてやってください。関わってください」。そうイエス様に願い続けることです。誰かのために祈り続けることです。

 そのために、わたしたちは遣わされていきます。「ハレルヤ、主と共に行きましょう。ハレルヤ、主のみ名によって」とわたしたちは散らされていくときに、どうぞ、今日のこの人々の働きを思い起こしてください。

 そしてみんなで、「この方のなさったことはすべて、すばらしい」と神さまを心から讃える喜びの賛美をささげることができたらと思います。