2020年1月12日〈顕現後第1主日・主イエス洗礼の日〉説教

天が開いた──イエスの洗礼
 マタイ3:13-17

  司祭 ヨハネ 井田 泉
  奈良基督教会にて 

「イエスは洗礼を受けると、すぐ水の中から上がられた。そのとき、天がイエスに向かって開いた。」マタイ3:16

 天が開いた、というのです。これは尋常なことではありません。訳されてはいませんが、ギリシア語本文を見ると「そして、見よ」という言葉が書かれています。「そして見よ、天が開いた。」
 これは、それを目撃した人にとっても、それを言い伝えた人にとっても、書き記した人にとっても、特別なことでした。

「見よ、天が開いた。」

 なぜなら、天は閉ざされていたからです。天とは、わたしたちの目には見えない、この地上の現実とは別の世界、はっきり言えば神さまの世界です。神は遠くにおられて、わたしたちには近づくことも理解することも感じることもできない。
 天は閉ざされたままで、神は沈黙しておられるかのようです。それでも人々は求めていました。信じたいと願いました。神さまを知りたいと切望しました。人々のうめくような祈りが旧約聖書の中にあります。

「あなたの統治を受けられなくなってから、あなたの御名(みな)で呼ばれない者となってから、わたしたちは久しい時を過ごしています。どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように。」イザヤ63:19

 つらい、耐えがたい時を長く過ごしてきた人々のひとりが、神を叫び求めた祈りです。

「どうか、天を裂いて降ってください。」

 その祈りが聞かれる時が来ました。イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられたとき、「見よ、天が開いた」
 閉ざされていた天が開いたのです。神さまの世界が今、あらわになる。神が沈黙を破って語られる。神の息吹が人々に吹き込まれる。それが今、起こりつつあります。

「そのとき、天がイエスに向かって開いた。」

とありますから、まずは天はイエスに向かって開きました。天が開くと、不思議なことが起こります。16節の続きです。

「イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった。」マタイ3:16

 神の霊が、神の力が、人を生かす神の命が、イエスの上に降(くだ)ってくる。それをありありとイエスは見られました。
 「鳩のように」。鳩に意味があるのでしょうか。創世記にノアの洪水の物語があります。歴史以前の遠い昔、人間のあまりの悪のゆえに、神は大洪水を起こして世界を一掃された。ノアとその家族は箱舟の上で、来る日も来る日も、雨と海、水ばかりを見ていました。やがて雨はやみ、世界に光が増してきました。ノアは鳩を放ちました。すると鳩は夕方になって帰ってきました。鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていました(創世記8:11)。鳩は神と人との間の回復のしるし。新しい世界と命のしるしです。

 イエスの洗礼によって、いま新しい世界、新しい命が始まる。イエスご自身が神の霊を受け、神の命に満たされました。
 そして天が開けると、もうひとつのことが起こりました。

「そのとき、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた。」マタイ3:17

 神はイエスにこのように呼びかけられました。

 これはイエスさまのみに起こってそれで終わりなのではありません。その反対に、イエスがわたしたちのために天を開いてくださったのです。イエスをとおして、イエスによって、わたしたちに向かって天が開いた。イエスによって神はわたしたちにもご自分を示してくださり、わたしたちにもご自身の霊を、命を、ご自身の息吹をわたしたちに与えてくださる。イエスをとおして神はわたしたちにも呼びかけてくださる。「あなたはわたしの愛する子」と。

 ところでイエスの降誕、洗礼、その生涯、十字架と復活は、特定の人だけのためのものではなくて、あらゆる人のためのものです。イエスはただクリスチャンのためだけではなく、すべての人のために天を開いてくださったのです。イエスさまの救いの光はすべての人に注がれています。洗礼を受けなければ救われない、という立場をわたしはとりません。
 しかし強調したいのは、洗礼を受けて初めてわたしに開けてくる世界がある、ということです。洗礼をとおしてこそ与えられる温かい命がある。洗礼を受けてこそ聞こえてくる神の声があるのです。

「あなたはわたしの愛する子」

 このように呼びかけられる幸せは、何ものにも代えられません。

 神さま、開かれた天から注がれるあなたの愛の命と呼びかけをわたしたちにも経験させてください。アーメン