2021年5月23日<聖霊降臨日>説教

「聖霊を受けたあなたは、何をしますか?」

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ヨハネによる福音書20章19~23節

 今日は、聖霊降臨日。復活日、降誕日と並んで大切にされてきたキリスト教の三大祝日の一つです。それでもイースターやクリスマスに比べると地味で、クリスチャンであってもペンテコステを祝う意味がピンとこないという人も多いかもしれません。でも、実はとてもすごい日なのです。それは、今この瞬間にも、神さまを信じて生きるわたしたち一人ひとりにかかわっている出来事だからです。

 起源は今から二千年前。主イエス・キリストは十字架につけられて死なれた後、三日目の朝に復活され、その後四十日に渡って弟子たちとともにこの地上におられました。死という絶望の淵から瞬く間に引き上げられた弟子たちはさぞかし夢見心地で、そして喜びいっぱいにこの期間を主とともに過ごしたことでしょう。しかし、復活日から四十日目の木曜日に、主は「聖霊が降るのを待ちなさい」と言い残し、弟子たちの見ている前で天に上げられます(使徒言行録1章3-11節)。弟子たちはまたまた大きな不安にとらわれたことでしょう。目の前から突然、全幅の信頼を置いていた人が消えてしまう。それは恐ろしいことです。小さい頃、すぐ戻ってくるから待っててねとお母さんに言われて、こぼれそうになる涙をグッとこらえながら、もし帰って来なかったらどうしようという心の中の大きな黒雲と葛藤した記憶は誰にでもあるのでないでしょうか。弟子たちは、それから十日間、イエス様なしで、しかし彼が残された約束の言葉だけを信じて祈っていました。

 すると、突然、激しい風が吹いてくるような音が天から起こり、彼らが座っていた家中に響きました。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、弟子たち一人ひとりの上にとどまったのです。その後何が起こったか。一同は聖霊に満たされ、霊が語らせるままに、他国の言葉で話しだしたというのです。そこに居合わせた人々は驚嘆しました。弟子たちが、自分の生まれ故郷の言葉で話しているのを聞いたからです。皆、戸惑いを隠せず、「新しいぶどう酒に酔っているのだ」とあざけ笑う人たちもいたといいます。でも、聖霊を受けて勇気百倍となったペトロをはじめとする弟子たちは、そんな嘲笑をものともせず、ナザレのイエスについて語り続けました。そして、なんとその日のうちに三千人ほどの人たちが彼らの言葉を受け入れ、洗礼を受けて、イエスに従って生きる仲間に加わったのです。

 聖霊が降って何が起きたのでしょうか。それは、弟子たちが主イエスの肉体なしで、初めて人々に「神を知らせる」ことができるようになったということです。一言で言うなら、「宣教」です。宣教とは何か。とても難しく聞こえます。とてもじゃないけど、わたしには、ペトロみたいに人々の心を一気に燃え上がらせるような説教はできません。何ができるんだろう、日々悩まされています。

 わたしは今、京都の平安女学院中学校高等学校でチャプレンをさせていただいていますが、この学校は<建学の精神>として、「知性を広げ、望みを高くし、感受性を豊かにし、そして神を知らせる」という創立当時の宣教師の言葉を掲げています。この最後の「神を知らせる」の意味を99%ノンクリスチャンである生徒たち、そして先生たちに説明する時、まず伝えるのは、それは単に聖書の内容を解説することではないということです。「神を知らせる」ことは、聖書を知っているチャプレンや聖書科の先生の専売特許ではない。洗礼を受けたクリスチャンであるなしにかかわらず、このキリストの名によって建てられた学校に連なるすべての人が担う使命であると説明します。では、「神を知らせる」とは一体どういうことを意味するのでしょう? 

 今から9年前の2012年、日本聖公会宣教協議会が行われ、わたしたちはこれからどのように宣教・牧会をしていくのか、どのようにこの世に神を知らせ、神の栄光を現していくのかということが話し合われました。そこで提言されたのが、聖公会が大切にしてきた「教会の5つの要素」です。聖公会手帳にも記載してありますからまたご覧ください。その5つとは、①み言葉に聴き伝えること、②世界・社会の必要に応え仕えること、③生活の中で福音を具体的に証しすること、④祈り、礼拝すること、⑤主にある交わり、共同体となること、です。一人が全部できなくて良いのです。今日の使徒書、コリントの信徒への手紙一12章4節以下にある通り、神さまは聖霊によってわたしたち一人ひとりに違う賜物を与えてくださっています。体の部分のように、みんな違う働きをしながら、キリストという一つの体のために生きるのです。さあ、考えてください、あなたにはどんな賜物が与えられているでしょうか? 

 5つをかみ砕いて、わたしなりに簡単に説明すると、①神さまの存在を知らせること、②困っている人に手を差し伸べること、③いつも主にあって喜び、感謝して生きること、④だれかのために祈ること、⑤違いを認め、あらゆる人を招き入れること。もっといろんな解釈の仕方があり、もっともっと枝分かれさせていくこともできるでしょう。わたしは長年アメリカで教会生活を送りましたが、日本と違うなぁと思うところは、一人ひとりの信徒の宣教に対する積極性です。まず、初めて教会に来た人は、一枚のウェルカムカードを渡されます。そこには、ずらーっと「あなたが神さまのためにしたいこと、できること」という細かいリストが並んでいて、そこにチェックマークを付けるのです。聖書朗読できます、食べ物を寄付できます、子どもが好きです、歌を歌うことが好きです、楽器ができます、人と話すことが好きです、礼拝準備を手伝いたいです、お掃除できます、料理が得意です、車出せます、力持ちです、教会に来られない人を訪問します、手紙を書くのが好きです、イラスト書けます、パソコン得意です、祈ります、などなど。一つでもいいのです。あなたにできることは何ですか?

 主は言われました。「父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす」と。そうです、わたしたちは聖霊を受けて、この世界に遣わされているのです。神の国を完成させるために! あなたにできること、あなたのすることすべてを神さまのためにしましょう。それが宣教です。「神を知らせる」ということです。弟子たちの上に降った聖霊は「炎のような舌」と描写されています。「炎」とは神さまが共におられる、大丈夫という確信と一歩を踏み出す勇気、「舌」とは、自分とは違う人々と通じ合うことのできる温かい心です。

 一年後2022年にもう一度日本聖公会宣教協議会が行われ、この十年の間どのように<宣教・牧会>に取り組むことができたのかを分かち合うそうです。今日から来年の聖霊降臨日までの一年、奈良基督教会の一員として、わたしたち一人ひとりに何ができるか真剣に考えてみませんか? 聖霊がわたしたちの上にますます豊かに与えられますように!

 父と子と聖霊の御名によって、アーメン。