「人として当たり前のことをするために」
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ルカによる福音書4章14~21節
今日の福音書の最初、「イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」とあります。この“霊”とは、聖霊のことなのですが、イエス様は、ヨルダン川で洗礼を受け、その後荒れ野で悪魔の誘惑に打ち勝ち、聖霊に満たされて、生まれ故郷のガリラヤのナザレへ戻って来られました
聖公会では、あまり聖霊について語られません。父と子と聖霊という三位一体の神であり、私たちは、神さま、イエス様、と祈ることはあっても、「聖霊様」と祈ること、あんまりないですね。そして、自分の身に起きた「聖霊の働き」を人に話すこともそんなにないような気がします。聖霊はどうやら私たちにとってあまり身近なものとなっていないようです。しかし、祈祷書の聖餐式の式文の中には、聖霊という言葉は多く出てきますし、ニケヤ信経でも唱えます。「また、主なる聖霊を信じます。聖霊は命の与え主、父と子から出られ、父と子とともに拝みあがめられ、預言者によって語られた主です」。でも、聖霊が具体的にどのように、ふだん私たちが生活するなかでかかわっておられるのかについてはあまり述べられていません。
聖霊は、聖書の原語ヘブライ語では、「息」や「風」とも訳すことができます。最初の人間、アダムが造られたとき、神さまは土をこねて人形を造り、その鼻にご自分の息を吹き込まれました。そうして人は初めて、生きるものとなったと創世記には書かれています。私たちが生きているということは、神さまの息によって、言い換えれば聖霊によって生かされているということなのです。そして、この生きるというのは、ただ心臓が動いて身体が生きているということではなくて、心が生きているということ。それはすなわち、神さまの思い、神さまの愛が私たちの中に息づいているということなのです。
また、聖霊は風のようでもあります。外にいれば私たちはいつも風を感じることができます。頬を切るように冷たい風、心までじわっと温かくなる春の風、じとーっとした梅雨の風、まるでからからの真夏の風、そしてさわやかな秋の風。目には見えないけれど、いつも自分のまわりで励ましたり、やさしく包んだり、叱ったりしながら踊っている風のような存在、それが聖霊、そして神さまと言えるかもしれません。
聖霊とは、私という人間を生かすために注入された神の愛であるということ、そしてそれはいつも私たちと共にあるということです。目に見えない神さまの存在をほんの少しわからせてくれる方、それが聖霊なのです。でも、この説明だけでは、とても独りよがりな受け止め方に感じます。いつも神さまが私と共におられる、だから私は大丈夫。それだけで良いのでしょうか?
今日の福音書にヒントがあるようです。聖霊に満たされたイエス様が故郷ナザレの会堂で、安息日の礼拝に出席されていた時のことです。聖書朗読の当番だったのでしょうか。イザヤ書の巻物を渡され、読まれました。「主の霊が私の上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。主が私を遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目に見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」。そしてイエス様は、会堂にいた人々に言われたのです。「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」。何が実現したのでしょうか。少し言い換えると、貧しい人、苦しみのうちにある人に希望が与えられ、すべての人が罪の鎖から解放され、神さまを知るための心の目が開かれ、悪の力に虐げられている人が自由になり、すべての借りが帳消しにされる主の恵みの年が来る。そんな世界が今実現する。そう言われたのです。これは神の国です。神さまの愛と平和の満ち満ちた世界です。イエス様は、聖霊に満たされたご自身の存在自体が、この神の国の始まりであると宣言なさったのでした。
話は変わりますが、先週、私がチャプレンをさせていただいている学校で、特別講演会が行われました。第二次世界大戦中、六千人のユダヤ人を救った「命のビザ」で知られる、杉原千畝さんのお孫さんである杉原まどかさんに生徒たちにお話をしていただく貴重な機会が与えられたのです。1940年、杉原千畝さんは、リトアニアの日本領事館で勤務しておられ、そこへ数多くのユダヤ系ポーランド人の避難民がソ連を渡り日本を通って第三国へ逃げるためのビザを発行してほしいと詰め寄りました。彼らのほとんどは、日本の国が入国を許可するビザの発給要件を満たしていませんでした。その上、日本はドイツと同盟関係にありましたから、このビザの発行は外務省から禁じられました。しかし、自分が助けなければこれらの罪なきユダヤ人はすべて収容所へ送られ殺害されてしまう。千畝さんは考えに考え抜き、たとえ命令に反してもビザの給付はどうしても拒否できないと判断します。妻の幸子さんも「私たちはどうなってもいいから助けましょう」と背中を押し、1か月間あまり、寝る間も惜しんで、2132枚の手書きのビザを発行したのです。戦後、帰国すると、千畝さんは外務省から自主的な退職を通告されたそうですが、何十年も経ってから千畝さんのビザによって助けられたユダヤ人たちが現れ、イスラエル政府からその功績を讃えられ表彰されました。そこから日本でも脚光を浴びるようになったわけですが、その時、千畝さんが繰り返し口にしたのは、「私は人間として当たり前のことをしただけ」という言葉だったそうです。
この話を聞いて、私は、この「人間として当たり前のことをする」ということがどんなに勇気のいることなのか、そしてどんなに大きなことであるのかということを思いました。また、人間として当たり前のこととは何なんだろうと。そして気づかされたのです。人間として当たり前のことというのは、神さまのかたちに造られた私たち一人ひとりに注入された神さまの愛であるということに。その神の愛を行動に移すことが、人間として当たり前のことをすることであり、それをするように私たちを突き動かしてくれるのが聖霊の働きなのでないかと。イエス様に倣い、イエス様だったらどうするかを考え、動くときに聖霊が助けてくれるのです。杉原千畝さんご夫妻はロシア正教会で洗礼を受けたクリスチャンでした。想像ですけれども、大きな決断を下す中できっと彼らは祈り、キリストに倣って神の愛を生きるために聖霊を求めたのではないでしょうか。
今、国内外で色々なことが起き、すべてのことがあまりにも複雑で、何が正しく、何が正義なのかもはや分からなくなってきました。もうなるようにしかならない、私には関係ない、そんな風に思いがちです。でも、こんな時代だからこそ、私たちは神さまから与えられた「人として当たり前のこと」が何なのかを思い起こさなくてはなりません。神の愛を生きることができるよう、勇気を持ち、人を愛し、人を赦し、平和をつくり、そして神さまとともに神の国をほんのちょっとずつ大きくしていくことができるよう、聖霊を求めるのです。私たち人間が生きる目的は、一人ひとりが神さまに守られた安らかでハッピーな人生を送るためだけではなく、神さまの望まれる世界を創るお手伝いをするためなのです。聖霊に満ちたイエス様ご自身によって実現され始めた神の国を完成させるために、私たちは生かされているのです。
聖霊を受けた私たちは、今日の使徒書(一コリ12:12-27)でパウロが語っているとおり、一つの体となり、一人ひとりがその体の部分となります。神の国を完成させるために、私たちはみんな違った賜物が与えられており、それぞれが愛し合い、認め合い、支え合い、助け合いながら平和な世界、神の国をつくり上げていくのです。そのキリストの体が、健康体で生き続け、神さまのために働くために、いつもどんなときも聖霊を求めましょう。聖霊に満たされましょう。どんな状況においても、神さまから与えられた、人間として当たり前のことができる人となるために。