2025年12月7日<降臨節第2主日>説教

「アブラハムの子たち」

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 マタイによる福音書3章1~12節

 今日読まれた特祷は、このような言葉から始まっています。

 「慈しみ深い神よ、あなたは悔い改めを宣べ、救いの道を備えるため、預言者たちを遣わされました」。この言葉を読んで、わたしたちは、どのような人物を思い浮かべるでしょうか。

 新約聖書に限ると、異邦人に宣教したパウロやバルナバ、ユダやシラスを預言者とみる考え方もありますが、今日の福音書に出てきた人物、洗礼者ヨハネを預言者、それも「旧約最後の預言者」と考えることが多いようです。その洗礼者ヨハネは今日の場面で、ファリサイ派やサドカイ派の人々が大勢、洗礼を受けに来たのを見てこう言います。「蝮の子らよ、差し迫った神の怒りを免れると、だれが教えたのか。悔い改めにふさわしい実を結べ」と。さらに続けます。「『我々の父はアブラハムだ』などと思ってもみるな。言っておくが、神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる。斧は既に木の根元に置かれている。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる」。

 この言葉、いったいどのような意味でしょうか。「我々の父はアブラハムだ」というのはどういうことなのでしょうか。そこを少し見てみましょう。

 旧約聖書のイザヤ書11章1節には、このような言葉があります。「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊 思慮と勇気の霊 主を知り、畏れ敬う霊」。そしてその人は、「弱い人のために正当な裁きを行い この地の貧しい人を公平に弁護する。その口の鞭をもって地を打ち 唇の勢いをもって逆らう者を死に至らせる。正義をその腰の帯とし 真実をその身に帯びる」と書かれます。この箇所には「平和の王」という小見出しがつけられていますが、今日読まれた使徒書、ローマの信徒への手紙15章12節には、このようにも書かれています。「また、イザヤはこう言っています。『エッサイの根から芽が現れ、異邦人を治めるために立ち上がる。異邦人は彼に望みをかける』」と。

 ここには「異邦人」という言葉が出てきました。しかしどうでしょう。エッサイってどういう人物かご存じでしょうか。エッサイというのはルツとボアズの孫で、イスラエル最大の王と呼ばれるダビデの父です。ですから「エッサイの根より」という言葉と「ダビデの子孫」という言葉には、それほど大きな違いはありません。実際イエス様は、「ダビデの子」と呼ばれることもたびたびありました。ではなぜ、エッサイという名前に、ここでは焦点が当てられているのか。それはエッサイのおじいさんとおばあさんに当たる人物、特にルツに関係があると思われます。

 ボアズとルツ、その二人の物語は、旧約聖書のルツ記に出てきます。昔、ベツレヘムに、エリメレクとナオミという夫婦がいました。しかしベツレヘムのあるユダの地を飢饉が襲い、夫婦は食べ物を求めて二人の息子を連れ、モアブという土地に移り住みました。モアブというのは、ベツレヘムからヨルダン川を渡った東側、簡単にいうとユダヤ人以外の人たち、いわゆる異邦人が住む場所でした。エリメレクが死んだ後、二人の息子はそこでそれぞれモアブの女性と結婚します。しかしその後二人の息子も死んでしまい、母ナオミといわゆるお嫁さんの二人の女性が残されたということです。女性3人、みんな聖書で言うところの「やもめ」の状態でモアブという異邦人の地に残ることは、母ナオミにとって生きるのにとても困難な状況でした。そこでナオミは故郷のユダの地に戻ることを決め、二人のいわゆるお嫁さんには、モアブに残ってそれぞれの実家に帰るように促すのです。

 弟の嫁であったオルパは泣く泣く、ナオミの言うとおりに実家へ戻っていきました。ところが兄の嫁のルツは「自分もナオミ母さんと共に行く」と言って聞かず、結局ナオミとルツは、ベツレヘムに戻ったわけです。つまりルツというのは、異邦人の女性なんですね。彼女はそれからボアズという人の畑で落ちている麦の穂を拾い集めて生活していきます。そこから物語はいろいろあって、ここは是非皆さんも聖書を読んでください、いろいろあって、ボアズはルツを妻として迎え入れ、二人の間にはエッサイの父となるオベデが生まれるのです。

 イスラエルの人たちは、自分たちの血筋を大切にしていました。ほかの民族と婚姻関係になるのを良しとせず、自分たちが純粋なユダヤ人であることにこだわっていました。サマリアの人たちは、他の民族と婚姻関係を結びます。だからイスラエルの人たちは、彼らを見下し、軽蔑していたほどです。しかしダビデの父エッサイの、おばあちゃんに当たる人物が、異邦人だったのです。新約聖書の最初、マタイによる福音書の第1章には、イエス様の系図が書かれています。見知らぬ人の名前が続き、なかなかハードルの高いスタートにはなっています。

 しかしこの系図をよく見ると、とても大切なことが書かれているんですね。この系図には、マリア以外にタマル、ラハブ、ルツ、ウリアの妻という4人の女性が出てきます。タマルは義理の父親、つまりしゅうとの子どもを産んでしまった女性です。ラハブは遊女でした。またウリアの妻であるバト・シェバは、ウリアとダビデ、ふたりの男の妻となりました。そしてルツは異邦人です。そのような人たちが、イエス様の系図には登場するのです。

 その人たちは、人々が「罪人」や「異邦人」と呼んで差別し、関わりを拒絶していた人たちでした。でもその系図の中に、極端なことを言えば「罪の系図」の中に、イエス様が来てくださった。そのことがとても大切なのです。

 洗礼者ヨハネは言います。「我々の父はアブラハムだ、などと思ってもみるな」と。アブラハムの子孫だから、ユダヤ人だから、わたしたちは当然のように救いに与ることができる。当時の人たちは、そう思っていました。しかし、これから来られる方はそうではない。自分たちは正しい、救われるのに値している。そのように思う人ではなく、罪にまみれ、抜け出すことができない。神さまを求めることしかできない、そんな人たちのために、神さまはイエス様を遣わす。それが預言者である洗礼者ヨハネに与えられた神さまの言葉、思いだったのです。

 一見すると、厳しい言葉を洗礼者ヨハネは叫びます。しかし、自分の罪を認め、自分の弱さに気づかされ、神さまによってしか歩むことのできない自分を知ったときに、「神はこんな石からでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」という洗礼者ヨハネの言葉は、まさに福音となるのではないでしょうか。神さまは、わたしたち一人一人を愛し、そしてわたしたち一人一人のためにイエス様を遣わされました。その愛を感じ、受け入れていきたいと思います。まもなく訪れる喜びの日を、一人でも多くの方々と分かち合うことができますように、お祈りを続けてまいりましょう。