2022年10月16日<聖霊降臨後第19主日(特定24)>説教

「ひたすらしつこく」

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 ルカによる福音書18章1~8a節

 おととい、幼稚園の運動会がおこなわれました。本来はその前の金曜日、7日に予定されておりました。昨日、幼稚園の親子礼拝の中で、「お祈りってなんだろう」っていうお話をしました。というのは、もともと予定していた運動会の前、たくさんの子どもたちや先生たちがお祈りしているのを知っていたからです。

 クラスでもおうちでも、何度もお祈りをしたことでしょう。でも、結果として雨が降りました。そのことを子どもたちはどう思ったでしょうか。わたしたちはある意味、大人の信仰者になってしまっていますから、「お祈りは聞かれないこともある」と自分に言い聞かせます。「み心の通りになりますように」という言葉を添えて、聞かれなかったお祈りは神さまの思いとは違ったんだと自分を納得させようとしてしまうのです。

 さて、今日の場面は、このような言葉から始まります。「イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された」。

 このたとえは、イエス様が十字架に向かい、間もなくエルサレムに着くという状況の中で語られました。つまりイエス様にはわかっていたのです。ご自分がもうすぐ十字架につけられることが。そして弟子たちとご自分が、一緒に行動することができなくなることが。イエス様には。何度も気を落とし、沈みこんでしまう弟子たちの姿が見えていたのでしょう。いや、それだけではありません。2000年の間、数え切れない信仰者が気を落としてきました。わたしたちも幾たびも気を落としてきました。

 イエス様は、そんな一人ひとりに語りかけられるのです。「気を落とすな」と。そして「絶えず祈りなさい」と。そのために、こんなたとえを語られました。

 ある町に、一人のやもめがいました。やもめとは、聖書の中では「夫と死別し、再婚していない女性」のことを主に指します。

 当時のユダヤでは、夫を亡くした女性は、息子が養ってくれなかったならば、とても厳しい生活が待っていたようです。虐げられ、食い物にされるやもめの姿が、聖書の中にも描かれています。たとえばイエス様は、ファリサイ派に対して「あなたたちはやもめを食い物にしている」と非難されました。多分、こんなことがあったでしょう。まず「夫に先立たれる」ということは、当時の社会において大きな不幸です。そういうときに、当時の人々はこう考えるんです。「これは神さまの罰だ。きっとこのやもめは何か悪いことをしたに違いない」と。ただでさえ悲しいのに、人々からそういう目で見られる。そんな中で、頼ってしまうのは宗教指導者なんですね。当時の宗教指導者であるファリサイ派は、「これ以上、あなたに不幸が訪れないようにしましょう」とか「先祖の罪を赦してもらえるように祈りましょう」とか言ったかどうかは知りません。しかし長いお祈りをすることによって、祈祷料をいただいたのです。その行為こそが、イエス様が「やもめを食い物にしている」と批判された行為なのです。

 しかしイエス様が語られたたとえに出てくるやもめは、泣き寝入りしようとはしませんでした。「相手を裁いてほしい。自分を守って欲しい」と、裁判官に訴え続けます。その結果、全く取り合おうとはしなかった裁判官が、ついに折れたのです。

 このたとえに出てくる裁判官は、「神を畏れず人を人とも思わない」と書かれています。普通の人でも人と思われないのですから、やもめはなおさらです。さて、ここでイエス様は何を言いたかったのでしょう。要は「比較」なんですね。

 今日の場面を、少し考えてみましょう。たとえに出てくる裁判官。「神を畏れず人を人とも思わない」というその人は、わたしたちの常識からしたら、どう考えてもひどい人です。なんでこんな人が裁判官になっているんだろうかというレベルの人です。この裁判官と神さまとを比較したらどうだろうか、とイエス様は問いかけるわけです。

 神さまはわたしたち一人ひとりを愛してくださっている。これがわたしたちの信仰です。この信仰があるから、わたしたちはこうして祈ることができます。たとえの中の裁判官と神さま、あなたのことをどちらが考えているだろうかと聞かれると、多分みなさん、それは神さまだと答えるのではないでしょうか。

 しかしこの神を畏れず人を人とも思わない裁判官は、やもめの願いを聞き入れました。「うるさくてかなわない」という理由はともかく、やもめのしつこさに負け、裁判をするという決断をしました。この裁判官さえこのようにするのだから、あなたがたを愛している神さまだったらどうすると思う?というのがイエス様の伝えたいことなのです。

 昨日の親子礼拝の中で、子どもたちに向けて、こんな話をしました。みんなの中に、カレーが大好きっていう子、いるよね。で、おうちの方に、「毎日カレーがいい」ってお願いしたらどうなると思う?カレーの日が増えるかもしれないけど、「お父さんは他のものが好きだから」とか、「体のこと考えるとお魚も食べて欲しいから」って考えると思うよね。毎日カレーにしないのはみんなのことが嫌いなのではなく、みんなのことを本当に大切に思っているからなんだ。

 そんなお話しです。わたしたちはお祈りをしていく中で、空しさや失望感を味わうこともあるかもしれません。例えば教会では毎週、ウクライナのため、ロシアのために祈っています。しかし祈っても祈っても、事態は解決に向かうどころかひどくなっている。お互いに爆撃をおこない、多くの命が失われ、たくさんの涙が流されています。「祈っても意味ないじゃないか」、「こんな遠くから祈ることに何の意味があるの?」、そう思うかもしれません。祈る意味を見失い、ただ惰性のように文字を読み、また耳にする。けれどもそれではダメなのです。

 イエス様は、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、今日のたとえを語られました。なぜイエス様は、このようなたとえを語られたのでしょうか。それは神さまが、わたしたちの祈りを待っておられることを知っておられるからです。そして神さまは、わたしたちの心の叫びを聞きたいと願っておられるからです。

 しつこく、執拗に、祈りましょう。「神さま、何とかしてください」と叫び続けましょう。自分のことだけではなく、誰かのために。今、苦しみ、悲しんでいる人のために。「神さま、どうか憐れんでください」と祈り続けるのです。

 その声を、神さまは必ず聞いてくださいます。わたしたちが望む形ですぐに結果が出るわけではないかもしれません。でも、必ず神さまはそのみ心に沿った形でいつかきっと祈りを聞いてくださる。そのことを信じていきたいと思います。神さまはわたしたち一人ひとりを愛しておられるのですから。