「復活することになっている」
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ルカによる福音書24章1~10節
復活日、おめでとうございます。今日の福音書の冒頭にはこのように書かれています。「そして、週の初めの日の明け方早く、準備しておいた香料を持って墓に行った」。今、この一文を聞いて、「あれ、さっき読まれた聖書と違う」と思われた方はすごいと思います。実は今日の箇所、聖公会で使用している「聖餐式聖書日課」と、日本聖書協会の新共同訳聖書とでは、少しだけ書かれていることが違うのです。
具体的に言うと、新共同訳聖書では「明け方早く、準備しておいた香料を持って」と主語が明確にされていませんが、聖餐式聖書日課C年では、「明け方早く、婦人たちは準備しておいた香料を持って」とわざわざ「婦人たちは」という主語を入れています。なぜ礼拝で読まれる聖餐式聖書日課に「婦人たちは」という言葉が付け加えられたのでしょうか。それは「誰が墓に行ったのか」ということがとても重要だったからです。
わたしたちはイースターに向けて様々な準備をして、その日を迎えます。しかし2000年前は違いました。イエス様のそばにいた弟子たちがみんなでワクワクしながらお墓に行ったのではない。女性たちしかお墓には行っていなかったのです。
弟子たちはいったいどこに行ってしまったのでしょうか。復活のイエス様を女性たちに迎えに生かせ、自分たちはサプライズパーティーの準備でもしていたのでしょうか。出し物の練習をしていたのでしょうか。決してそんなことはありませんでした。マタイ・マルコ・ルカ福音書は伝えます。イエス様が十字架につけられたとき、弟子たちは皆いなくなってしまったと。ヨハネ福音書だけには「イエス様が愛した弟子」だけがいたという記述がありますが、おそらく史実としては、弟子たちは皆にげてしまったというのが本当のところだろうと思います。十字架のそばには女性たちしかいなかったのです。
ではこの女性たちは、イエス様の十字架のところまで行った女性たちはどうだったのでしょうか。彼女たちは復活のイエス様に会うためにお墓に向かったのでしょうか。それも違います。先ほどもお読みしたように、「準備しておいた香料を持って墓に行った」のです。香料や香油はイエス様がお墓に納められた後、女性たちが家に帰って準備したものです。彼女たちはそれらを、イエス様の遺体に塗ろうと考えていました。なぜ塗るのか。それは遺体が腐敗するのを遅らせるため。遺体のにおいを和らげるため。そして埋葬の準備をするためでした。
つまり彼女たちの中でも、イエス様は亡くなってしまっているのです。お墓にあるのはイエス様のご遺体のみ。そのご遺体を丁寧に処理し、手厚く葬るために、彼女たちは墓に出かけました。彼女たちもまた、イエス様が復活するとは考えてもいなかったのでしょう。
最初の復活日の出来事は、弟子たちも、女性たちも、だれも想像していないことでした。誰一人として、予想もしなかったことが起こったのです。しかしその出来事は、イエス様が弟子たちにガリラヤで言われたことでした。輝く衣を着た二人の人は、そのことを改めて女性たちに伝えます。
「人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか」。そのように二人の人、別の福音書では主の天使と書かれていますが、彼らはイエス様の言葉を改めて伝えました。この「復活することになっている」という書き方は、神さまのご意思がそうさせているのだという意味です。
暗闇に覆われ、信じることが出来なかった人の元に、メッセンジャーがやってくる。これは一つ、とても大きなことだと思います。わたしたちも今ここに集められ、イエス様のご復活を喜んでいます。それはたとえわたしたちが自分の力で暗闇から抜け出せなかったとしても、イエス様が来てくれるはずなどないと震えていても、悲しみの中にずっといたとしても、復活のイエス様は来てくださるのです。
このことをまず、大事にしたいと思います。わたしたちが強く、自分の力で歩くことができ、神さまの前に正しいものだからイエス様が来てくださったのでしょうか。そうではありません。とても弱く、今にも倒れそうなわたしたちのために、復活のイエス様は現れてくださるのです。
ただし現れてくださると言っても、今日の福音書で読まれた最初の復活物語は少し奇妙です。というのも、肝心の復活のイエス様は出てこないからです。出てくるのはメッセンジャーだけ、主人公であるはずの復活のイエス様はそこには出て来られないのです。
今日の福音書の場面に、「からの墓」というタイトルを付けることがあります。お墓が空である。イエス様のご遺体がなく、体を巻いていた亜麻布だけが落ちている。だからイエス様はご復活なさったのだというのが、この「からの墓」のポイントです。
しかし、正直わたしは単純な人間ですので、来週以降に読まれるような、復活のイエス様が締め切った部屋の真ん中にあらわれた場面や、エマオまでの道の途中で一緒に歩いていた場面、漁をしていたら岸辺に復活のイエス様がいた場面などのほうが分かりやすいなあ、って思ってしまいます。
でも2000年前の最初のご復活は違いました。イエス様は誰か特別な人のために、人が理解できる形でそのお姿を現されはしませんでした。その場からいなくなることで、すべての人のために、いろんな形で、そしてそれぞれの人に合ったタイミングで、復活のイエス様は来てくださるのです。
来週から読まれる復活物語は、いわば過去のものです。わたしたちは会ったことのない、他の人たちに起こったものです。しかし神さまはわたしたち一人ひとりに、復活のイエス様との出会いを用意してくださいました。そのことを感謝したいと思います。わたしたち一人ひとりに用意された、それぞれの復活物語を感じていきましょう。神さまはわたしたちのためにイエス様をお遣わしになり、そして復活のイエス様はわたしたちに手を差し伸べ、起こしてくださいます。
その喜びを、ぜひ多くの人と分かち合っていきましょう。わたしたちが関わるすべての人たちと共に、歩んで行けるようにとお祈りしております。 主のご復活、おめでとうございます。