「信じるということ」
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ヨハネによる福音書4章5~26、39~42節
イエス様はシカルというサマリアの町に入られます。今日の箇所の直前にはこのような言葉があります。「しかし、サマリアを通らねばならなかった」と。イエス様はユダヤにいたものの、ガリラヤへと行く必要ができた。その際に、サマリアを通らなければならなかったようです。聖書にも何度か出てきますが、イスラエルの人たちとサマリアの人たちは、とても仲が悪かったそうです。敵対していたと言ってもいいと思います。イスラエルの人はこう思っていました。「サマリア人は、汚れている」と。
異教の神を拝み、他の場所に神殿を建て、また他民族との混血をもいとわない。そのようなサマリア人をイスラエルの人たちは軽蔑し、馬鹿にし、決して交わろうとはしなかったのです。ですからこの話を聞いた人たちは、みな眉をひそめたでしょう。「どうしてイエス様は、よりによってサマリアに入られたのか。遠回りしたらよかったのではないか」、それが彼らの本音でした。
ところがさらに、イエス様は驚くべきことをします。それは、そこにいたサマリアの女性に声をかけるということでした。公の場で男性が女性に声を掛けること、特に教師とされる人がそのようなことをすることはありえない、タブーとされていました。つまりここで、イエス様はまず、二つの壁を乗り越えられたのです。民族と性別という二つの壁。人々から見たら大きく超えられない壁だったでしょう。しかしイエス様はその壁を、無造作にいともたやすく超えられたのです。
サマリアの女性は、「水を飲ませてください」というイエス様の言葉に驚きます。そこには、民族と性別を超えて話しかけてくるイエス様のその行為に対する驚きもあったでしょう。でも同時に、もう一つの理由がありました。それは彼女は、人目を忍んで水汲みに来ていたということです。ユダヤの地方は昼間、とても暑くなります。ですので水汲みのような重労働は、涼しい時間帯、早朝などにおこなっていました。井戸の周りには女性たちが集まり、文字通り「井戸端会議」が始まります。その時間が、彼女たちの憩いの場でした。しかし今日の物語に出てくるサマリアの女性は、正午ごろに水汲みに出かけたそうです。そこには、どのような思いがあったのでしょうか。真昼間の、太陽がギラギラと照り付ける時間帯です。遠くの方には蜃気楼さえ見えるかもしれません。早朝にはあんなに賑やかだった井戸の周りには、誰もいません。みんな日陰で、涼しい中でもできる仕事をその時間帯にはしているからえす。誰も好んでこんな時間帯に、水汲みになど行かないのです。
サマリアの女性の願いは、そこでした。誰にも会いたくない。一人にして欲しい。人との交わりを拒み、人目を避けるように生きるその女性には、それなりの理由があったのです。「あなたには5人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない」、イエス様は彼女の身の上におこったことを言い当てます。当時の社会の中では、夫に早く亡くなられたら妻が神さまから罰を受けたのだと指をさされ、離婚した場合もすべて責任は妻に負わされていました。ですから5人も夫がいたということを周りの人たちは、「何て罪深い女だ」、「まったくふしだらな女だ」としか見なかったのです。彼女はいわば不幸な結婚生活の一番の被害者でした。しかし人々は、淫らな女性と噂する。それが耐えられなかったのだと思います。
彼女はイエス様との会話の中で、水を求めておられたイエス様が実は、自分が一番求めていた「命の水」を持っていることに気づかされました。彼女は言います。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます」。
そしてその言葉に対して、イエス様は言われました。「それは、あなたと話をしているこのわたしである」と。いつも乾き、水を求め続けてきた彼女の心に、渇くことのない水が注がれた瞬間です。彼女はイエス様によって、変えられました。イエス様との出会いによって、変えられる。わたしたちだってそうだと思います。先週、3人の子どもたちの洗礼式がおこなわれました。神さまに出会い、そして受け入れるということ、このサマリアの女性のように、わたしたちは経験していきます。いくつもの壁を乗り越えてわたしたちの元に来て、招いてくださるイエス様。そのイエス様に、「わたしにも渇くことのない水を飲ませてください」と応じること、その大切さを今日の箇所は教えてくれます。
しかし物語は、それで終わりません。イエス様に出会ったサマリアの女性はどうしたのか。カッコの中に入れられて、読まれなかった28節と29節に、このように書かれています。女は、水がめをそこに置いたまま町に行き、人々に言った。「さあ、見に来てください。わたしが行ったことをすべて、言い当てた人がいます。もしかしたら、この方がメシアかもしれません。」
彼女は人に会いたくなくて、人目を避けて真昼間の一番暑い時間帯に水汲みに来ていました。その彼女が、町の人たちのところに向かうのです。「わたしが出会った人はメシアかもしれない」と、大勢の人たちに証言していくのです。イエス様との出会いによって彼女は変えられ、そしてその喜びを人々に伝えずにはおられなくなった。これが伝道なのです。今、自分が味わったこの喜びを、一人でも多くの人に伝えたい。内側から押し出されるように、人々に伝えて行く。それがわたしたちにも求められている、伝道であり、宣教なのではないでしょうか。
イエス様が滞在した二日間の間に、多くのサマリアの人たちは、イエス様の言葉を聞いて信じました。その彼らは、サマリアの女性にこう言いました。「わたしたちが信じるのは、もうあなたが話してくれたからではない。わたしたちは自分で聞いて、この方が本当に世の救い主であると分かったからです」。
あなたのおかげでわたしたちは信じたわけではない、と冷たく言っているようにも聞こえますが、そうではありません。彼女はイエス様に関する知識を、彼らに伝えて理解させたのではありませんでした。彼女の言葉が、人々を導いたわけでもありませんでした。人々は彼女の言葉を聞き、「そういう人に、わたしも会いたい」と思わせたのです。そして実際に、サマリアの人々はイエス様に会いに行きました。頭で理解するのでも、知識を得るのでもありません。「イエス様に出会う」、そのことによって、彼らもまた、信じる一人ひとりとされたのです。
イエス様との出会いによって変えられた女性が、道を伝える者とされた。彼女の喜びを見て、わたしもイエス様と出会いたいと多くの人が思わされた。この物語は、2000年前の昔話ではありません。わたしたち一人ひとりが経験し、そして促されている今も生き続けている物語です。一人でも多くの方にわたしたちがすでに得ている喜びが伝えられますように、一人でも多くの方がわたしたちにすでに与えられている愛に気づきますように、わたしたちができることを祈り求めていきましょう。