2022年5月1日<復活節第3主日>説教

「日常の中に」

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 ヨハネによる福音書21章1~14節

今回の箇所には、地名が書かれています。ティベリアス湖畔という聞き慣れない場所です。ローマ帝国がユダヤを統治していた時代、ガリラヤ湖はこのように呼ばれていました。つまり彼らは、ガリラヤ湖の湖畔に戻っていたということです。

 イエス様が十字架につけられたのがエルサレムですから、きっと先週の二回はエルサレムのどこかの家に隠れている弟子たちの元に、復活のイエス様が現れたのでしょう。しかし三度目はイエス様が宣教を始めたガリラヤの地でした。イエス様の宣教の中心は、カファルナウムというガリラヤ湖のそばの小さな町でした。そこにいたのは、決して裕福ではなく、日々の暮らしにも疲れ果てていた人たちでした。神さまに見捨てられたと思われていた人たちとイエス様は共に過ごし、神さまの愛を伝えました。そのガリラヤの地に、復活のイエス様が来てくださった。エルサレムという宗教の中心地ではなく、ガリラヤという生活の場にイエス様が来られたということは、わたしたちにとってもとても大きなことです。

 さて彼ら弟子たちは、ガリラヤ湖で何をしていたのでしょうか。みんなで「復活のイエス様に会えますように」ってお祈りしていたのでしょうか。そうではありませんでした。彼らは魚をとっていたのです。

 ささげ物にするわけでもなく、弟子たちは自分たちが食べるために、生活するために魚をとりに出かけていきました。そのことを聞いて、不思議に思われる方もおられるかもしれません。エルサレムで復活のイエス様に出会った彼らです。どうしてエルサレムに留まって、宣教を始めなかったのだろうかと。

 ルカによる福音書や使徒言行録を読んでいますと、ペトロたちの働きによってエルサレムの教会はつくられていったとなっています。聖霊降臨日の出来事は、ペトロたちが祈っている中に炎のような舌が降りて来て、聖霊に満たされて様々な言語で語り始めた。そこから教会が始まっていったとされます。ところが今日のヨハネ福音書やマタイ福音書では、復活のイエス様と弟子たちがガリラヤで会ったという物語が載せられています。どちらが正しい、どちらが間違っているということではありません。この、「普段の生活の中に来られる」ということが大事なのです。

 わたしはこういうことを聞かれます。いつ、どこで、どのようにお祈りをするのがいいのでしょうか、と。祈祷書には朝の祈りや夕の祈り、そして就寝前の祈りというものが載せられています。また諸祈祷というページには、様々なときに祈る祈りが載せられています。ですからどうしても、「祈り」イコール「決められたもの」というイメージがあるのかもしれません。

 決められた時間に、決められた場所で、決められたお祈りをする。別にそのことを否定するつもりはありません。エルサレム神殿はユダヤの人々にとって、とても大事な場所だった。それはまぎれもない事実です。しかし神殿で決められた祈りをしないと神さまが聞いてくださらないのだとしたら、どうでしょう。神殿はわたしたちにとっては、礼拝堂と置き換えることが出来ると思います。この礼拝堂という場所を、特別な場所として大切にする。それは意味のあることでしょう。でもそこだけに目を向けてしまうと、わたしたちは大変な間違いを犯してしまうのです。

 2年前の今ごろ、わたしたちは教会に集うことができませんでした。新型コロナの影響で全国に緊急事態宣言が出され、教会は礼拝を休止するという決断をしました。教会に行きたくても行くことができない。その現実がわたしたちの前にはありました。 でもそのときに、わたしたちは同時に気づいたはずです。たとえコロナがなかったとしても、年齢や、体調や、仕事などで、どれだけたくさんの人たちが教会から足が離れ、祈ることのできない毎日を過ごしていたのかということを。教会に来ることのできないお一人おひとりを、わたしたちは心に覚えているのか、そのことを突き付けられたように思います。

 先ほどの話、いつ、どこで、どのようにお祈りをするのがいいのでしょうかと聞かれたとき、わたしはよくこのように答えます。いつでも、どこでも、どのようにお祈りいてもいいですよと。たとえば電車に乗っていて吊革につかまっているときに、ふと誰かのことが気にかかる。そのときに心の中で、「神さま、聞いてください」、これもお祈りですよ。たとえばどうしようもなく孤独を感じ、疲れ果て、もう神さまからも見捨てられたと思えたとき、心の底から「神さま、何でですか」と叫ぶ。それもまたお祈りなんですよ。そうやって答えます。

 それは復活のイエス様がガリラヤにも来てくださったからです。エルサレムだけではなく、ガリラヤという、人々が泣き、笑い、痛み、苦しみ、毎日を過ごしているその日常にきてくださったからです。だからイエス様はわたしたちが今、生活している、生きているこの場所にも来てくださるのです。そのことを聖書はわたしたちに伝えているのです。

 しかし、この場面、面白いなあって思いませんか。最初イエス様が岸に立っていたとき、弟子たちはそれがイエス様だとは気づかなかったそうです。でも「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」という言葉通りに網を打ったところ、153匹もの魚がとれた。そのときに弟子の一人が、「あれはイエス様だ」と気づいたのです。わたしたちにもありませんか。何気ない日常の中で、普段は見過ごしていたような小さな出来事が、実は神さまの恵みであったということ。あとから思い返すと、あのとき確かにイエス様が一緒にいてくださったに違いないということ。わたしたちはその繰り返しの中で、生かされているのです。

 気づかないうちに、何度もわたしたちの日常の中にイエス様は来てくださり、わたしたちを起こし、導いてくださるのです。

 さて、弟子たちのところに来られたイエス様は、そのときに何をされたのでしょうか。これまたホッとすることが書かれています。炭火をおこし、魚をその上にのせ、さらにパンも用意したというのです。そして、朝食を一緒に食べるのです。わたしはこの場面を想像するたびに、とても楽しくなってしまいます。だってイエス様が、一緒にムシャムシャ食べてくれるんです。

 イエス様はご復活なされました。それは、わたしたちがこの日常を、イエス様と共に歩むためです。重荷を負っているときには一緒に背負い、泣いているときには一緒に泣き、そして喜びの中では一緒に大喜びされる。そのイエス様と出会いましょう。

 そしてイエス様を心からお迎えし、歩んでいきたいと思います。神さまの豊かな祝福が皆さまの上にありますように、そしてわたしたちのすぐそばにいる人たちの上にも、神さまの愛が伝えられますように、お祈りしてまいりましょう。