2024年4月21日<復活節第4主日>説教

「良い羊飼い」

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 ヨハネによる福音書10章11~16節

 先週の日曜日、わたしたちはその前の日である土曜日に天に召された信徒の方の、通夜の祈りをおこないました。次の日、月曜日に葬送式をおこない、神さまの元へお送りしたのですが、実はその日の朝、他の一本のお電話をいただきました。その電話は、わたしが4月から新たに管理する教会で、3月まで管理牧師をしていた司祭さんからでした。「教会の信徒の方が亡くなりました。連絡をとってあげてください」。そこでその教会の信徒の方に電話番号を聞いて、ご家族の携帯をお聞きしました。その管理をする教会には第4日曜日に行くことになっていましたので、まだそこで礼拝したこともありませんでした。葬儀の日程はすでに決まっていました。水曜お通夜、木曜葬送式、いずれも葬儀会館でおこなうということでした。葬儀会館でのお葬儀ですから、必要な準備はほとんどしてくれます。極端な話、からだ一つで行っても、何とかなるものです。でも、そういう気持ちにはなれませんでした。わたしはお通夜の前日、火曜日に、スケジュールを調整して、ご自宅である三重の上野まで行ってきました。

 こういう話をすると、「お忙しいのに」とか「お疲れでしょう」とか声を掛けていただくことが多くあります。でも決してそうは思わなくて大丈夫です。というのも、この「死」に関わる時間こそ、牧師が最も大切にしないといけないものだと思うからです。わたしが牧師のなろうと決意したのは、多くの人の死を見たことがきっかけでした。その中で、わたしは気づかされたのです。死の向こう側に希望を持っている人と、そうではない人と、こんなにも違うのかと。同じように悲しみの涙は流れます。震えは止まらず、立ち上がることもままならない、そういう方もたくさんおられます。

 でも心に、死の向こう側にある命を信じ、神さまがその魂をいつまでも憩わせてくださるという約束を信じている方は、何かが違って見えたんですね。きっと神さまはわたしにこのことを伝えて下さっている。わたしはこれから一人でも多くの人に、その神さまの約束、グッドニュースを届けたいと強く思い、牧師の道を歩くことになったのです。ですからどんなに忙しくても、どんなに他の予定が入っていたとしても、牧師として最優先するのは、一番の悲しみの中にある人に寄り添い、一緒に涙を流すことだと思っています。

 さて、牧師は英語で「パスター」と言います。パスターには、羊飼いという意味もあります。主教さんが持っている杖は、羊飼いを象徴しています。そしてわたしたちは知っているんですね。本当の羊飼いが、わたしたちをも導いてくださっていることを。それこそが、良い羊飼いであるイエス様です。羊飼いと羊の関係は、聖書にはよく登場します。

 羊って、すごく弱い動物です。しかしわたしたちは羊飼いや羊のことを良く知らないから、大体のイメージで考えてしまいます。これがわたしたちの理解を妨げる要因の一つです。

 羊は本当に弱い動物です。臆病で、怖がりで、みんなで固まって動きます。目が悪いので、仲間のお尻を嗅ぎながら移動するそうです。大きな物音がするとビックリして逃げ出したり、また倒れると自分の力でなかなか起き上がることすらできません。食べ物である草がたくさん生えているところにもなかなか行くことができず、水が豊富なオアシスにもたどり着けません。野獣や強盗にも襲われることが多く、そのときには逃げ惑うしかできません。

 聖書はわたしたち人間と、この羊たちとを重ね合わせます。いつも怯え、震えており、どこに向かって歩いていいのか分からない。自分に危害を与える者から逃げ、倒れたら起き上がるすべを知らない。その羊の姿は、まぎれもなくわたしたち一人一人のものでもあるのです。

 羊にとって必要なのは、導き主です。草場やオアシスに導いてくれる人が必要です。また羊にとって必要なのは、守り主です。敵が来たとしてもそこから守ってくれる人が必要です。それが羊飼いだと、聖書は伝えるのです。

 ただ、ここでイエス様が言われているのは、自分は普通の羊飼いではなく、「良い羊飼い」であるということです。では普通の羊飼いと良い羊飼いって、どこに違いがあるのでしょうか。

 たとえば羊たちを野原に連れて行こうとしたときに、群れからはぐれてしまった羊がいたとします。何だか聖書の他の箇所を思い出しますね。100匹の羊がいて、そのうちの1匹がいなくなってっていうたとえ話、ルカ福音書に書かれています。

 実際、群れからはぐれる羊って、羊の中でもさらに弱い羊なんです。体力的にしんどくて、ついて行けない。年齢的に、また身体に欠陥があったりして、行動を共にできない。普通の羊飼いであれば、そのような羊は見捨てるんですね。健康で、体力のある羊だけがついてくればいい。弱い羊はもう探しもしないわけです。そこで死んでしまったとしても、それは仕方がない。弱い羊が悪いと普通の羊飼いは考えるんです。

 では野獣や強盗に襲われたときはどうでしょう。普通の羊飼いは健康で、素早く動ける羊だけを連れて、逃げていきます。残されるのは、やはり弱い羊たち。普通の羊飼いはそうやって、多少の犠牲を払いながら生きていきます。それが常識なのです。

 ところが良い羊飼いはどうでしょう。「良い羊飼いは羊のために命を捨てる」、そうイエス様は語ります。どんなに弱い羊でも、行動を共にすることができない羊でも、歩くことができなくなった羊でも、その大切な羊を守るために、自分の命すら惜しまないのです。

 そしてさらに、「良い羊飼いは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」と語られます。前にいた幼稚園でよく歌っていた、こんな歌があります。

 ひとりひとりのなをよんで あいしてくださるイエスさま

 どんなにちいさなわたしでも おぼえてくださるイエスさま 

 ひとりひとりをあいされて うれしいときにはよろこびを

 かなしいときにはなぐさめを あたえてくださるイエスさま

 「一人一人の名を呼んで」という歌です。イエス様は良い羊飼いとして、すべての羊のこと、わたしたち一人一人のことを何よりもご存じです。イエス様はどんなときにもわたしたちのそばにおられ、守り、愛し、慰めてくださる。そのことを心に留めたいと思います。

 お葬式のお手伝いをしている中で、強く感じることがあります。それはわたしたちのそばで、いつもイエス様が見守って下さっていることです。喜び、悲しみのただ中におられ、そして人生の一番つらいとき、愛する人との地上での別れの時にも強く関わって下さる。そのことをこれからも、ご一緒に感じてまいりましょう。復活の主は、私たちと共におられます。