2022年11月27日<降臨節第1主日>説教

「入口までの道のりを大切にしよう」

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 マタイによる福音書24章37~44節

 今日から紫の期節、降臨節に入り、本日は教会の暦の上で最初の日となります。一年の始まりが、イエス様のお誕生をお祝いする大きな祝日、クリスマスからではなく、その準備の期間であるアドベントからであるというのは、非常に興味深いことです。実は聖書の世界では、この準備の時間、待ち望む時間というのがとても大切にされるのです。創世記の冒頭、天地創造の記事を読みますと、何度も繰り返されるのが、「夕べがあり、朝があった。第◯日の日である」という文です。一日は朝日とともに始まると私たちは思いがちですが、ユダヤではそうではなく、その前日の日没、すなわち次の日の出を待ち望む暗闇から始まるのです。そして、ご存じの通り、ユダヤ教の安息日は、土曜日ですけれども、前日金曜日の日没から始まります。私たち日本人は、なんとなく、終わり良ければすべて良しというか、結果をすごく重視しまして、ある大切な日が完璧になるのであれば、そこへ至るまでの過程はどんなに見苦しいものでも悲惨なものであってもよいという考えがあるように思います。なんだかもったいない気がしませんか。

 今朝は、この準備の時間、待ち望む時間を大切にするということを皆さんと共に考えたいと思います。街は、すっかりクリスマスになってきましたね。どこもピカピカでウキウキする音楽が鳴っています。でも、クリスマスの本当の意味を知る私たちが行うクリスマスの準備というのは、ツリーやイルミネーションの飾りつけ、はたまたケーキやチキンの予約のことではありません。準備を行うのは、外側ではなく、私たちの心の中です。今日から始まる紫の祭色が表わすのは悔い改めです。悔い改めとは、神様と自分の関係を見つめなおし、今までそっぽを向いていた自分の立ち位置を神様の方へ向き直らせることをいいます。それをどのように行うかが、本日の3つの朗読に表わされています。

 最初に読まれた、旧約聖書イザヤ書2章1~5節には、有名な言葉が書かれています。「彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。」主の日が来る、イエスさまが来られる、そんな時にわたしたちは戦争をしている場合なのでしょうか。そう思わされずにはおられません。そして、「ヤコブの家よ、主の光の中を歩もう」とイザヤは締めくくっています。ヤコブの家とは、イスラエル、すなわち神さまの壮大な救いの計画のために選ばれた民のことです。そしてそれは、洗礼を受け、神さまの子どもとなった私たちのことでもあるのです。

 二つ目の朗読は、ローマの信徒への手紙13章8-14節が読まれました。「隣人を自分のように愛しなさい」、これ以上に大切な掟はないとパウロは言います。そして、救いの日は近づいた、だから闇の行いを脱ぎ捨てて、光の武具を身に着け、主イエス・キリストを身にまとって歩みましょうとローマにいたキリスト者たちを励ましています。

 そして最後に、マタイによる福音書24章42節からは、人の子はいつかは分からないが、いずれ必ず来られる、それも思いがけない時に来られる、だから「目を覚ましていなさい」というメッセージが語られます。この3つのメッセージ、決してバラバラではなく、繋がっているんですね。クリスマスを一カ月後に迎える、どんどん寒く、そして暗くなっていくこの時期に、もう争うのをやめて、隣人を自分のように愛し、そして目を覚まして、ドキドキワクワクしながら、光である主が来られるのを待ち望みなさいと言われることは本当に大きな意味があるように思われます。そして、これが私たちクリスチャンの降臨節の過ごし方なのです。それでは、私たちは毎年このクリスマス前の一か月間だけ、そのような過ごし方をすればよいのでしょうか? そうではないはずですよね。実は、私たちがこの世で生きる人生、それぞれの一生は、実はアドベントなのです。

 昨日土曜日、今年8月30日に天に召された私の父の記念式を神戸教区がしてくださいました。神戸教区主教であったためです。その時に遺族として何か参列くださったみなさんにお礼ができないかと色々考えていたのですが、良い物が見つかりました。彼が50年ほど前に当時司牧していた教会の信徒たちに向けて書いた冊子が出てきたのです。ぼろぼろになったその冊子をパソコンで打ち直し新しく印刷し直してお配りすることにしました。そのタイトルは、ずばり「死に備える」というものです。たくさん余ってますので、ご興味ある方は、どうぞご自由にお持ち帰りください。よくこんな難解な、そして重苦しいテーマを38歳の若造牧師が書いたものだとちょっと笑ってしまうくらいの代物なのですが、その中にこのような言葉があります。「いつ死んでもいいように備える」という小見出しの後に、「心の準備」として、「死はキリストの御許に行く入り口であるから、常に心と身を整えておきたい。一日一日を感謝して力いっぱい生きる。できる限り礼拝に出席し、み言葉を聞き、罪の赦しを受け、聖餐に与ること」。もう、ザ・牧師というような文章ですけれども、その中の「死はキリストの御許に行く入り口である」という一文に私ははっとさせられました。死は入り口であり、出口ではないのです。そして、私たちが今生きているこの世の生涯は、その入り口へ向かうまでの道のりなのだということです。素晴らしい始まりの時を待ち望む期間、アドベントなのです。今日から始まる、クリスマスまでの1ヶ月間は人生の縮図と言えるのかもしれません。

 そう考えた時に、私たちがどう生きるべきかということはおのずから見えてきます。私たちがイエスさまの御許に行くための準備は、イエス様の誕生を待ち望む準備と同じなのです。それは、繰り返しになりますが、第一に「剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする」とあるように争いをやめるということ。戦うことを学ばず、主の光の中を歩むということです。それは、戦争をしないということだけではありません。今、私たちの心は、誰かを倒したい、謝らせたい、間違いを認めさせたいそんな思いで渦巻いていないでしょうか。恨みや怒りでいっぱいになっていないでしょうか。今一度考えてみたいと思います。

 そして争いをやめたら、次に来るのは、隣人を自分のように愛するということです。愛しなさいというのは、単に好きになりなさい、仲良くしなさいということではないと思っています。そうではなく、相手に耳を傾けようとすること、自分の思いは横に置いておいてもその人の気持ちを分かろうとする、そして認めることだと思っています。

 そうして、最後にくるのが、目を覚ましているということです。イエスさまの御許に行く入り口にたどり着くのがいつなのか、私たちにはわからないからです。御国が来る日が先かもしれないし、私たちが主の御許へ行く日が先かもしれない、明日なのか、30年先なのか、如何なる予想をすることもできません。だから、考えないでおきなさい、というのではなく、目を覚ましていなさいと主は言われます。それは、その日がいつ来てもいいように心を準備しておきなさいということです。聖書では、夜中にやってくる泥棒がたとえとなっていますが、そんな怖がることはありません、だって会えるのは泥棒ではなく、イエス様なのですから。先ほどの二つのこと、争いをやめて隣人を自分のように愛する努力をしたなら、あとはサンタクロースを待つ小さな子どものようにわくわく待ち望むだけです。

 主の御許へ行く入り口までの道のりを楽しみましょう。嫌なことも、苦しいこともいっぱいあります。でも、祈れば必ず神さまが手を差し伸べてくださり、重荷を共に負ってくださいます。クリスマスまであと4週間、精一杯心の中の馬小屋をお掃除して、赤ちゃんイエスさまをお迎えしましょう。