2024年4月28日<復活節第5主日>説教

「いつもいっしょに」

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 ヨハネによる福音書14章15~21節

 イースターから1か月が経ち、あと10日ほどで昇天日という時期になりました。聖霊降臨日までの、今日を含めて3回の日曜日には、毎年ヨハネ福音書の「告別説教」が読まれます。これは、イエス様がまだ生きておられた頃、十字架につけられる直前に、この世に残していかねばならない、愛する弟子たちに対して語られた、長い遺言のようなスピーチです。なぜ復活されたのに、また十字架前に時間を戻すのでしょうか。

 使徒言行録によると、イエス様が復活して地上におられたのは40日間でした。でも実は、その間の出来事については、ルカによる福音書にあるエマオ途上での出来事、ヨハネによる福音書にガリラヤでの場面が少し書かれているだけで、それ以外はほとんど記録されていないのです。ですから、この復活された後、昇天されるまでの40日間に、イエス様がこの地上からおられなくなるとはどういうことなのか、私たちの目には見えない神さまをどう信じて生きて行けばよいのかということを、イエス様が十字架につけられる前に語られたみ言葉をもう一度、当時の弟子たちに心を合わせて思い起こしながら、考えていくわけです。

 イエス様の復活後の40日間に関してあまりの情報のなさから、「復活なんて嘘だったに違いない」という人たちもいます。でももし、復活後のイエス様の行動が、新聞の首相の一日みたいに書かれていたら、それこそ嘘くさいですよね。ヨハネの福音書のいちばん最後には、こう書かれています。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある。私は思う。もしそれらを一つ一つ書き記すならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう。」イエス様についてのすべては書ききれない。単に情報が多すぎるからということでなく、それは神さまだからです。私たちのちっぽけな頭では理解しきれない大きなお方だからです。

 結局のところ、イエスの復活など信じられないという人は、そもそも復活の出来事を信じられないのでなくて、イエスが神であったということが受け入れられないということなのではないでしょうか。イエス様が神さまだったと信じるならば、復活を受け入れることは難しくありません。だって、神さまなんですから。

 そして、イエス様がなさったことは、とても書ききれない、書かれたとしてもその書物は世界中の全図書館を合わせても収まり切れないだろうというのは、量的にもそうだということです。なぜなら実は今も、この2024年4月28日に至るまで、イエス様は私たちのうちに働いておられるからです。そう、主は、私たちの目に見えなくなった今日も生きておられるのです。

 目には見えないものの存在を言葉で説明するのはもちろん、理解するのは私たち人間にとって非常に困難です。でもそんな私たちを思って、イエス様が父なる神さまに遣わしてくれるようお願いすると言ってくださっているのが、今日の箇所に出て来た「弁護者」と呼ばれる霊なのです。この霊は「真理の霊」とも言われ、すなわち聖霊のことで、ヨハネ16章5節以下に詳しく書かれています。この霊とは何なのか、ごくシンプルに言うならば、イエス様が私たちの目には見えなくてもいつも共にいてくださることを分からせてくれる力のことです。神さまからの私たち一人ひとりに対する贈り物なのです。

 この霊がいらっしゃらなければ、イエスはただの歴史的偉人ということで終わってしまうのです。私たち聖公会では残念ながら、この聖霊というものをあまり強調しないために非常に分かりにくくなっています。ことあるごとに、「父と子と聖霊の御名によって」と「栄光は父と子と聖霊に」と唱えるにもかかわらず、この三位一体の神の一つの位格である聖霊に焦点が当たらなさ過ぎているように感じます。

 多くの著書を持ち、素晴らしい説教で有名なカトリックの晴佐久神父という方がおられます。私も大ファンなのですが、その神父さんは、この聖霊のことを「親心」と呼んでおられます。親心。私は15歳の時に一人家を出て高校留学のためにアメリカへ行きました。それまで煩わしいと思っていた教会と両親から離れて、本当に自由気ままな海外での生活をそこから15年間送りました。親の心子知らず、です。今、親になってやっと分かるようになりました。彼らが日々どんなに心配し、どんなに私のために祈ってくれていたか。その愛情と祈りは目には見えませんでしたが、いつも私のそばにありました。それがあったからどんなに苦しい時も辛い時も神さまにすがり、乗り越えることができたのだと思います。

 聖霊はまさしく神さまの「親心」なのです。私たち一人ひとりを本当に大切に思い、慈しみ、愛してやまない生みの親である神さまの思いが、片時も離れず私たちとともにあり、私たちの内にいてくだるのです。人生が順風満帆な時は、そんなこと思い出しすらもしません。でも、ああもう立ち上がれないと思ったときにふと誰かが声をかけてくれたり、何か考えもしないような出来事が起こったり、自分の心の中に新しい風を感じたりして、もう一度立ち上がる力が与えられる時があります。そのとき、私たちはそこに神様がおられることを思い出します。これが聖霊の働きです。そして、その誰かあるいは何かを通して神さまの愛にふれたとき、私たちはふっと背中を押されるようにして、次は、誰かに手を差し伸べる側に回るのです。

 イエス様は弟子たちに言われました。「あなたがたは、わたしを愛しているならば、私の戒めを守る」。イエス様の戒めとは、「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)です。先週の聖書箇所を思い出してください。イエス様は言われました。「私は良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる。」これがイエス様の愛、私たちの罪を贖うために十字架にかかってくださったのです。私たちがここで言われているのは、誰かのためにあなたの命を使いなさいということです。愛するとはそういうこと、すなわちあなたの心を誰かのためにつかうことです。そこに神様はおられるのです。

 息子が10歳の時に一つの歌を作りました。タイトルは「一緒にいるイエス様」です。

              かみさま、ほんとうにいるの? いるよ、いつもいっしょに     

              かみさま、どこにいるの?      あなたの心の中に

             かみさま、見えないよ            見えるよ、心の目で

              かみさま、会いたいよ            会えるよ! きみとぼくのいる場所で

              かみさま、会えたよ!             ありがとう、ありがとう!

 親ばかは認めますが、それにしても不思議なのです。聖書の知識などほとんどないのに、こんな詞を書けたのは、やはり神さまが共におられることを悟らせてくださる真理の霊が彼のところに来てくれたんじゃないかなと思わずにはいられません。

 今もここに私たちの間に聖霊が働かれ、神さまがともにいてくださっています。この、神さまはいつも一緒にいてくださるということを確信したなら、次は私たちがそれを人に伝える番です。今日の使徒言行録にも、とても不思議な出来事が書かれていました。キリスト者であったフィリポが、聖霊の導きによって、あるエチオピア人に聖書の話をし、洗礼を授けたというお話です。私たちも聖霊に導かれたなら、迷わずお友だちを教会に誘いましょう。あるいは、自分がどうしてクリスチャンになったのか、どこで神さまと出会ったのか、お話してみましょう。ちょっと恥ずかしい、嫌がられるかもしれない、怖いという気持ちは誰にでもあります。でも、そんなとき、「弁護者」なる聖霊が一緒にいてくださることを思い出して下さい。

 この聖霊の導きによって、全世界が神さまの愛に包まれるとき、御国が来るのです。5月9日の昇天日から聖霊降臨日までの11日間の間に、世界の聖公会で「御国が来ますように」を共に祈り、他のだれかをイエス様のものに導くことができますように祈る運動が行われます。今年も冊子が届きました。ぜひ、手に取り、あなたがイエス様に出会ってもらいたい5人の名前を書いて、祈ってください。イエス様は、神さまは、聖霊様はいつも私たちとともにおられます。その確信をもって、聖霊降臨日までの3週間、過ごしてまいりましょう。