2023年11月12日<聖霊降臨後第24主日(特定27)>説教

「ともし火を消さない」

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 マタイによる福音書25章1~13節

 今読まれた福音書は、ある意味わかりやすいものだとも言えます。ストレートに読みますと、「準備が必要」ってことでしょうか。わたしは小さいころから、忘れ物に対して恐怖心があり、前日の夜にものすごくしっかり準備をする習慣があります。また待ち合わせの時間なんかも絶対に遅れてはならないと、かなり早く出かけます。しかし50を過ぎてでしょうか、ときどきとんでもない忘れ物をしてしまい、困ってしまうことが出てきました。この前も大変な忘れ物したなあ、あれは何だっけと考えていましたが、何を忘れたのかすら忘れてしまいました。

 準備がだんだんおろそかになってきたわたし。だんだんと「愚かな」グループに近づいているというのでしょうか。もしそうだとすると、イエス様のこのたとえ話は、わたしたちにとって何だか耳の痛いものになってしまいます。

 でも、そもそも思うんです。この賢いおとめたちって、冷たいなあって。だってそうでしょう。予備の油、分けてあげるほどなかったとしても、二人組で一つのともし火を使いながら歩けなかったのでしょうか。

 予備の油を買うときに愚かなおとめたちに対して、「あなたたちも買っておいた方がいいわよ」とアドバイスしてあげられなかったのか。あるいは準備を怠る人もいるだろうと予測して、大量の油を買っておくことはできなかったのだろうか。

 しかしここで大事なのは、今日の話のポイントは何なのかということです。イエス様はこのように言われました。「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」。「目を覚ましていなさい」、でもこれは、ずっと起き続けていなさいという肉体的なことを言っているのではありません。なぜなら愚かなおとめだけでなく、賢いおとめも眠気がさして、眠り込んでしまったからです。つまりここでイエス様が言われているのは徹夜をしなさいということではなく、その定められた時に心を向けておきなさいということです。

 「何事にも時があり 天の下の出来事にはすべて定められた時がある」。これはコヘレトの言葉3章1節にある聖句です。すべての出来事は神さまによって定められた時がある。そういうことです。コヘレトの言葉では続けて、具体的なことが書かれています。「生まれる時、死ぬ時 植える時、植えたものを抜く時 殺す時、癒す時 破壊する時、建てる時 泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時 石を放つ時、石を集める時 抱擁の時、抱擁を遠ざける時 求める時、失う時 保つ時、放つ時 裂く時、縫う時 黙する時、語る時 愛する時、憎む時 戦いの時、平和の時」。

 そして最後に、このようにあります。「人が労苦してみたところで何になろう」と。この言葉だけを読むと、わたしたちは必死になって生きようとしても無駄。すべては空しいのだ。そのように捉えてしまう方もいるかもしれません。でも決してそうではない。神さまはわたしたち一人一人にふさわしい時を、準備してくださっているということです。

 この前の火曜日、とても嬉しい出来事がありました。週報にも書いておりますが、ある方の洗礼式をおこないました。「洗礼を受けて欲しい」、それはお連れ合いの方の願いであり、祈りでした。実はその前の週、木曜日にもその方に会いに、病院に行っていました。それはその二日前に、その方が「洗礼を受けたい」と言われたからです。でもその翌日には「そんなこと言ってない」と撤回され、その木曜日にはお祈りだけをしに行くことになりました。でも何故だかよく分かりませんでしたが、もうその方の心は神さまに向いている、神さまはその方をしっかりと掴んでいるという確信がありました。あとは神さまがふさわしい時を用意してくださるに違いないという、変な安心感がありました。

 ですからこの前の火曜日に連絡があったときは、式文とかストールとか水を入れるコップとか、準備を万端にし、出かけて行きました。病院までは普通だと30分くらいの距離です。しかしその日は大渋滞で、倍以上の時間がかかってしまいました。でも不思議なことに焦ることもなく、気持ちは穏やかなまま、祈りながら向かうことができました。

 病院についてご家族とお話しをしました。今日はずっと眠っているということも伺いました。ちょうど病院に着いたころ、夕食が各お部屋に運ばれていました。そしてスタッフの方がお部屋に入って来て、「ちょっと食べてみてもらいましょう」と準備をされます。わたしは洗礼式の準備の手をとめ、その様子を伺っていました。ベッドの背もたれを起き上がらせ、食べ物をスタッフの方が口に運ばれると、さっきまでずっと眠っておられたのに、食べ始められました。そしてだんだんと目も少しずつ開き始め、その時を迎えることになりました。洗礼式の式文に従い、式を進めていきました。時折うなずかれたり、また額に水をつけたり十字のしるしをつけるときも静かに受け入れられ、本当に安らかな時間でした。最後の方でふと思いました。「そういえば今日、渋滞がなく30分で来れたとしたら。食事の前に着いていたら。ずっと眠っておられたら。この洗礼式はどうなっていたのだろう」。そんなことを考えたときに、感じたんですね。「ああ、この場はすべて、神さまが準備してくださったんだ。神さまが備えてくださり、一番良い時を与えてくださったんだ」。そう心に響いたとたん、涙があふれてきました。洗礼を受けた方でもそのご家族でもなく牧師が一人泣いている、何だか不思議な光景ですが、そのようなことがありました。

 「目を覚ましていなさい」、イエス様は言われます。それは、いつ神さまが定められた時がわたしたちに訪れるのかわからないからです。でもここで、大事なことがあります。その「定められた時」は恐ろしいものではありません。ビクビクしながら待つものではないのです。そうではなく、喜びの時です。婚宴の祝宴のように、喜びで満たされる場に、わたしたちは招かれるのです。そのときがいつになるかはわからない。だからわたしたちは、ワクワク、ドキドキしながら、喜びをもってその定められた時を待つことができるのではないでしょうか。

 そしてわたしたちが用意する油、それが具体的に何かは様々言われてきました。わたしたちの心のうちに聖霊を満たすことだということや、祈りを絶やさないことだとか、いろんな解釈があります。その中で、わたしは思います。わたしたちの油とは、神さまにいつでもお委ねする心ではないかと。

 わたしたちのともし火は、自分の力だけでは燃やし続けることなどできません。でも神さまにお委ねしたら、神さまはすべてを備えてくださいます。そして定められた時にわたしたちが歩めるように、神さまは導いてくださいます。

 その日まで、待ち望みましょう。心を神さまに向けて、日々歩むことができれば、こんなにうれしいことはありません。