「神の国とからし種」
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マルコによる福音書4章26~34節
イエス様は今日の福音書の中で、「神の国は次のようなものである」、「神の国を何にたとえようか」と言われます。みなさんは神の国ってどのようなものだとお思いでしょうか。どんなイメージを持っているでしょうか。一度、こんなことやりたいなあって思っていることがあります。みなさんに大きな画用紙とクレヨンをお渡しして、「さあ、今から神の国のイメージを書いてみましょう」ってお題を出す。そこでみなさん、思い思いの色を使って書いていく。
わたしが書くとしたら、多分創世記の最初の方、エデンの園の風景を思い浮かべながら書くのかなと思います。ゾウや羊らライオンがいて、真ん中には人間がいて、水も空気もきれいに澄んでいて、みんな仲良く暮らしている。
でも今日の福音書のたとえを見る限り、イエス様が言われる神の国は、その想像するものとは少し違うようです。成長する種とからし種というたとえを用いられましたが、どちらも別の世界、遠い世界の話ではなく、わたしたちの間の出来事のようです。成長する種のたとえでは、神の国は気づかないうちに大きくなっていく。そしてからし種のたとえでは、神の国は地上で最も小さいと思われているものが、ものすごく大きなものになっていくということが語られています。
からし種は、聖書や教会の中ではよく耳にする言葉です。聖書に出てくるとき、からし種という言葉は「最少の単位」とか、「最も小さなもの」という意味を持ちます。地上にある種の内で、それはそれはとても小さい。風が吹けば飛んでしまう。目を離すと見失ってしまう。それがからし種です。神の国はそんなものだというんですね。わたしたちが注意して見ないと気づかないようなものが、みるみる成長して大きな木になる。その成長の過程は誰にもわからない。それが神の国だというんです。
からし種といいますと、聖書にはもう一つ、こんな場所で使われています。マタイによる福音書の17章14節から20節のところです。イエス様がペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人を連れて山に登られたあと、残された9人の弟子の元にある人が近づいてきて頼むんです。息子のてんかんをいやして欲しいと。当時てんかんなどの病気は、悪霊の仕業だと考えられていました。
しかし彼ら弟子たちは、悪霊を追い出すことが出来ませんでした。山から下りてきたイエス様は、その人の子どもを癒されました。そして悪霊を追い出すことができなかった弟子たちが、「なぜわたしたちは悪霊を追い出すことができなかったのでしょうか」と問いかけたのに対してこう言うのです。
信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。
からし種一粒ほどの信仰、それすらも弟子たちにはなかったのだろうか。そう捉えることもできるかもしれません。でもわたしはこう思います。弟子たちにはからし種一粒の信仰はあった。でもそこにすべての信頼を置き、その信仰だけを頼りにすることができなかった。こういうことではないかと思うんです。
このコロナの時代、わたしたちの信仰が試されていると言われます。毎週礼拝に来て、礼拝が終わったらみんなでうどんを食べ、今日のお出しはちょっと薄いだとか、わたしのうどんにはお揚げが入ってなかったとか、どうでもいいことをワイワイ言いながら過ごしていたこと、遠い昔のことのように感じます。
その何気ない会話の中で、お互いの心を知り、重荷も悩みも悲しみをも共に担い、ときには口論もしながら、でも支え合ってきた。教会というのは礼拝をするだけの場所ではない。交わりというのがこんなにも大切だったのかということを思い知らされました。YouTubeで毎週、説教を中心とした礼拝の動画を配信しておりますが、これが教会のすべてではないのです。そのことをわたしたちはコロナの中で、あらためて深く考えさせられたように思います。
そしてわたしたちはその交わりから遠ざかった時に、自分の信仰と向き合うわけです。自分の信仰の弱さにうろたえ、周りの人たちは何て信仰深いんだろうと思ってしまう人もいるでしょう。自分の信仰をもっと強くしたい。嵐が来ても風が吹いても、どんな困難にも立ち向かう信仰が欲しいと願う人もいるでしょう。そして弱さを見せない方もおられると思います。わたしは平気。大丈夫。わたしの信仰が守ってくれる。外に向かってはそのようにつくろいながら、実は内面では震えている。そんな方もおられるかもしれません。
イエス様は言われます。からし種一粒ほどの信仰があればと。わたしたちにはその信仰は与えられている。しかしそれに気づかない。もっと大きなものがほしい。自分はもっと大きな信仰を持っている。いろんな思いで、わたしたちはそのちっぽけな信仰を生かすのではなく、自分の力で何とかしようとしてしまう。でもそんな必要はないのです。
からし種は、成長してどんな野菜よりも大きくなるのです。成長させるのはわたしたちの力ではなく、神さまです。神さまが水をやり、光を与え、栄養をくださるから、大きく、大きく成長していくのです。
からし種の信仰でいいのです。大切なのは、その信仰、弱くて、ちっぽけで、すぐに吹き飛ばされそうな信仰を、そのまま丸ごと神さまにお委ねすることです。すべてをさらけ出して、あとは神さまにお任せしたらいいのです。
教会の交わりとは、お互いの弱さを認め合い、欠けた部分をお互いに補いあう、そういうものだと思います。弱くていいんです。当たり前なのです。弱いからこそ、神さまや、教会の仲間が必要なのです。
今日の教会委員会報告の中に、牧会訪問計画というのを載せております。コロナの中、なかなか訪問できない、そんな葛藤がわたしにはあります。でもどうぞ、声をあげて下さい。「あの人のところに行ってあげてください」、「あの人のところに一緒に行きましょう」、「わたしのところに来てください」。
わたしも弱い人間です。神さまに頼るしかありません。だからこそ、一緒に頼りましょう。一緒に祈り、一緒に苦しみ、一緒に涙しながら、それでもわたしたちのからし種の信仰が神の国へと導かれていく、そのことを信じ、歩んでまいりましょう。