「わたしたちの義」
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マタイによる福音書5章13~20節
今日の箇所に、「天の国」という言葉が出てきます。「天の国」というと天国を想像してしまいますが、聖書の「天の国」は、「神の国」と同じ意味です。そして国というのは場所を指しているのではなく、「支配」というのが一番近い意味になります。ですから「天の国」とは、「神さまの支配」ということになります。
イエス様の誕生、そしてそれから先のイエス様の活動は、神さまがわたしたちの間に手を差し伸べられたことを示す出来事です。神さまがわたしたちの間に恵みを注がれる、そのことがわたしたちの中に現わされたのです。その中で、イエス様はこのように言われました。「言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない」。
聖書をそこそこ読んでいる方であれば、イエス様のこの言葉はそんなに気にならないかもしれません。それは、「律法学者やファリサイ派の人々の義」と言われていますが、自分たちはそれより正しいことをしているだろうという自負があるからです。
聖書の中で、律法学者やファリサイ派の人々はイエス様に対する抵抗勢力として登場します。安息日について論争したり、イエス様を否定して十字架に導いたり、そのような姿が聖書には書かれていますので、ついついわたしたちは「彼らよりはマシだ」と考えてしまうのです。
しかし、イエス様の周りにいた人たちは、「律法学者やファリサイ派の人々の義」にまさることは不可能だろうと感じたと思います。なぜなら彼らは、とてもまじめだったからです。彼らは神さまから与えられた律法についてこと細かく学んだり、質素な生活をしたり、長いお祈りをしたりして、真剣に神さまに仕えていました。だから「彼らの義にまさらなければ」と言われても、「それは無理だ」と思ったでしょう。
となると、わたしたちはここで、考えなければならないと思います。イエス様は一体何を伝えようとされているのか。そしてこのことはわたしたちにとってどのような意味をなすのか。
今日のこの言葉、「律法学者やファリサイ派の人々の義にまさる」という言葉の前に、イエス様は二つのたとえを話されました。一つは「地の塩」、そしてもう一つは「世の光」というお話しです。塩というと、わたしたちにとっては身近なものです。塩にはいろんな働きがあります。たとえば味付けに用いたり、あるいは物が腐るのを防いだり、そのような働きです。そしてそのいずれの場合も、塩は素材に溶け込んで、目立たなくなってしまいます。反対に塩の存在が目立ちすぎると、素材の良さを壊してしまうことがあります。
また、「世の光」とはどういうことでしょう。わたしたちが人の前で輝かせる光は、わたしたち自身から発せられるものではありません。「わたしの光を見てくれ!」と叫んだところで、だれも目を向けてはくれません。そうではなくて、わたしたちは月と同じようなものだということを自覚しなければならないのだと思います。月は自分で輝くことなく、太陽の光を反射させます。でも夜に出歩く人々は、月を通して太陽の光を知るのです。
「律法学者やファリサイ派の人々の義」、それは自己主張する塩であり、自分の力で輝こうとする光だとも言えます。人の前で「自分こそが正しい」、「自分が一番神さまのことを知っている」と叫ぶような存在だったからです。
イエス様は言われました。「その義にまさらなければ」と。それはどういうことなのでしょうか。それ以上にあなたも自己主張をしなさいということなのでしょうか。自分で自分自身を輝かせるまでになりなさいということなのでしょうか。そうではないと思います。確かに当時のイスラエルの人たちが考える正しい人とは、神さまの前に胸を張って生きているような人たちでした。毎日律法を守り、献げ物も決められたとおりにおこない、人々から尊敬を集め、立派な服を着て町を歩く、そのような人たちでした。しかしイエス様の元に集まった人たちは、それとは真逆の人たちでした。貧しく、疲れ果て、自分の力で歩くこともままならない人たち。病気の人もたくさんいました。それがイエス様の山上の説教を聞きに来た人たち、そしてイエス様の元に連れて来られた人たちだったのです。彼らは神さまの前に正しい者になろうとしても、無理でした。神さまに祝福されるどころか、見捨てられたと感じていた彼らにとって、「彼らの義にまさらなければ」という条件は、とても難しいものに聞こえます。
しかし、先ほども言いましたように、イエス様の常識は、当時の社会の常識とは全く違いました。イエス様は律法学者やファリサイ派の人たちの行動を偽善と切り捨て、本当に神さまが喜ばれることは何かを、身をもって示し続けていかれるのです。
その中で語られた「あなたがたの義」というものは、律法学者やファリサイ派の義とは方向がまったく違う、そんなものなのかもしれません。
昨今、インターネットの普及によって、誰もが簡単に意見を言える、そんな世の中になっています。匿名であれ、実名であれ、メールやLine、Facebookなどなど、文書を入力して送信ボタンを押すだけで、一瞬でその内容がメールやLineの相手のみならず、世界中に拡散されていく。そんな時代です。とても便利だなと思う反面、かなり心がモヤモヤしてしまうこともあります。昔だったら誰かにお話しするのは、面と向かってか、電話か、お手紙か、でした。手紙を書くときには何度も読み返し、また届くまでの時間に様々な気持ちの変化もありました。電話や直接しゃべるときは、声の様子や表情で相手の気持ちを察しながら、会話をしていました。ところがネットの場合は、はっきり言って一方通行です。個人の主義主張が簡単にオープンになるのは良いこともあるのかもしれません。しかしその反面、独りよがりの正しさに立ち、自分こそが正義なのだと訴える。その結果、生じるのは争いです。言葉の刃がお互いを傷つけあう、そのようなことが何と多く見られることでしょうか。
自分の正義に立つ、それこそが律法学者やファリサイ派の義なのです。そうではなく、神さまの思い、イエス様に倣う一人ひとりであって欲しい。地の塩のように、人々の間で生き、自分を誇ることなく歩む者となって欲しい。世の光のように、自分を輝かせるのではなく、神さまから与えられた光を人々の間で輝かせてほしい。聖書の他の箇所には、「自分を捨て」という言葉があります。まさに自分ではなく神さまを第一に生きる、それがわたしたちの義となるのではないでしょうか。
わたしたち一人ひとりが与えられた場所で、地の塩、世の光として生かされるとき、わたしたちの義は神さまに喜ばれ、わたしたちの間には天の国、神さまのみ手に守られた豊かな世界が広がるのだと思います。