2024年9月22日<聖霊降臨後第18主日(特定20)>説教

「みんながみんなの後ろになる世界」

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 マルコによる福音書9章30~37節

 これから刻々と十字架の死が近づくイエス様とともに旅をしている途中、弟子たちの間でホットな話題が持ち上がりました。それは、自分たちの中で、「だれがいちばん偉いか」という話です。いちばん偉くなりたいとか、いちばん先になりたいと思ったことありますか? 日本では、なかなか自分がいちばんになりたいという人にお目にかかれません。グループのリーダーを決めるとき、たとえ、自分がやれるかな?とほんのちょっと思ったとしても、なかなか手を上げることは出来ず、「いえいえ、わたくしなどとんでもございません」、という話になります。ところが、アメリカでは、「はい!私にさせてください。私がいちばんで!」というのは特段おかしなことでも恥ずかしいことでもありません。アメリカという国では、むしろ、ある意味、いちばんになりたいと思うくらい厚かましくないとなかなか生きていくのが難しい国とも言えます。日本では謙虚さが美徳とされる一方、アメリカでは積極性が大切とされるのです。

 いずれにせよ、私たちの多くにとって、この「誰がいちばん偉いのか」という弟子たちの話題はどうも他人事に聞こえるのでないでしょうか。私も牧師になる過程で、神学校の入学式や卒業式、あるいは執事按手、司祭按手などの礼拝説教でしょっちゅう、ここでのイエス様の言葉、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」を聞きました。でも、そのたびに、「別に私はいちばんになりたいとも偉くなりたいとも思ってませんけど」と心の中で思っていました。偉くなりたいから牧師を目指していると思われている気がして、なんか嫌でした。それもあって、なかなかここに秘められたイエス様のメッセージを自分のこととして捉えることができずに来ました。ですから、今日は皆さんと一緒に改めて心を静めながら神さまの言葉にしっかりと耳を傾けたいと思います。

 まず、弟子たちが議論していた「いちばん偉くなる」「いちばん先になる」ということは何を意味したのでしょうか。弟子たちがこういう話をし出すまでに、イエス様は2回、ご自分の死と復活を予告されました。2回目が、今日の箇所の最初の部分です。「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」。そうイエス様は弟子たちに教えられたのです。「私は殺される」。もうこの言葉があまりにショッキングすぎたのでしょう。「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」とあります。そして、そのすぐ後に、誰がいちばん偉いかという話をしたというわけです。この「偉い」と訳されている言葉は、ギリシャ語で「大きい」を意味します。自分たちの中で誰がいちばん偉大か、重要人物かということです。

 この箇所について、多くの聖書学者たちは、弟子たちがいかにイエス様のことを理解していなかったか、どれだけ弟子たちがトンチンカンであったかがここで示されている、と言います。果たしてそうなのでしょうか? 弟子たちがしていた話は、イエスさまの死と復活の予告とまったく関係のない話だったのでしょうか? もちろん、想像するしかありません。でも、ひょっとしたら、イエス様にこれからどうなるか尋ねることが出来なかった弟子たちは、そのことについて、ひそひそと自分たちの間で話し合っていたのではないかと思うのです。

 イエス様が殺され、復活するということは、日ごろ自分たちが聞かされていた神の国の到来を意味するのでないだろうか。神の国で、イエス様は王となり、弟子として特別に選ばれた自分たちは側近となる。その中で一番徴用されるのはいったいだれだろうか。そんな話に花が咲いたのでないかと想像するのです。弟子たちは、おそらくですが、この世における価値観をそのまま、これから来るであろう神の国に当てはめていました。

 イエス様はそんな弟子たちの心の中をすっかり見抜いておられました。「君たちは、分かっていない。いちばん先になりたい者は、すべての人の後になるんだ。王だけではなく、すべての人に仕える者になりなさい。それが神の国にふさわしい者の生き方なのだよ。」

 てんで意味が分からずキョトンとする弟子たちの目の前で、イエスさまは、近くにいた一人の子どもの手を取って彼らの真ん中に立たせ、そして抱き上げて、やさしく、諭すように言われたのです。「私の名のためにこのような子どもの一人を受け入れる者は、私を受け入れるのです。そして、私を受け入れるということは、私をお遣わしになった方、父なる神を受け入れることなのです。」

 弟子たちは目を白黒させたことでしょう。当時、子どもは今のように人権が守られるわけでなく、まったく一人の人格として認められていない存在でした。今でこそ、子どもは貴い存在で、誰もが大切にしなければならないと考える時代ですが、当時はそうでなかったのです。今まで大人の男たちの目の隅にも入らなかった子どもを人として受け入れなさいとイエスさまは言われた。それは、この子どものように小さく弱い存在が、弟子たちが仕えるべき「すべての人」に含まれることを意味しました。

 神の国では、この世における価値観が完全に逆転します。すべての人がすべての人の後ろに回り、仕える者となる図、想像できますでしょうか。みんなが誰かの後ろになったら、それはやがて、大きな、大きな円になります。その円を作っているのは、小さな粒、大きな粒、いろんな形、様々な色の、一つとして同じものはない、決して優劣をつけることのできない美しい粒です。それらがみんな、誰かの後ろに並ぼうとしたとき、丸くなって、完全な調和、パーフェクトシンフォニーを生み出します。後ろになるということは、前の人に仕える、前の人を支えるということ。これが神の国です。そして、これは私たちがこの世の生涯を終えた後にある、手を伸ばしても届かない遠い世界にではなく、今まさに、私たちの間に神さまが造ろうとしておられる世界なのです。その世界の造り方を御子イエスさまが私たちに示してくださいました。

 イエス様は言われました。「私の後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従いなさい」。この「自分を捨てる」ということは、自分に与えられた賜物を他者のために使うということ、他者に仕える者となるということなのです。そこには痛みが伴うでしょう。しんどい思いもするかもしれません。それが自分の十字架を背負うことにほかならないからです。

 今、私たちは、この先、日本という国が将来的にどのような道をたどるのか、心を騒がせています。この国に、より良い社会を作り上げるリーダーが選ばれるよう、私たちは祈らなければなりません。でも、どのような状況にあろうとも、キリストに従うわたしたちが目指すのは、ただ一国の平和ではなく、いちばん先になりたい者がいちばん後にまわり、すべての人がすべての人に仕えるという、この世の価値観がひっくり返った神の国であることを、しっかりと心に留めておきたいと思います。

 みんながみんなの後ろになる、神の国は必ず完成する。私はこの確信を持っています。そして、この確信と希望を人々と分かち合うため、わたしは牧師として召されたと信じていますし、それは、イエス様の弟子となった私たち一人ひとりの使命でもあります。でも、よく周りを見渡せば、これは何も新しいことではなく、私たちの生きる世界のあちこちで既に、小さな神の国ができているのです。それらの小さな神の国同士がシャボン玉のようにひっついて、だんだんと大きな、大きな神の国が完成していく。これが神さまの夢です。この神さまの夢を、私たち一人ひとりの夢としてこれからも持ち続けていきましょう。