2022年6月26日<聖霊降臨後第3主日(特定8)>説教

「フォロワーの増やし方!?」

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 ルカによる福音書9章51~62節

 参院選が始まりました。各党が投票数獲得のため、必死に声を張り上げています。みなさんの生活を楽にします。戦争ではなく、平和を作る社会にしましょう。高校は完全無償化にしましょう。消費税は廃止しましょう。女性の声が政治に反映されるようにします…などなど。たとえ政権を取れたとして本当に可能なのか?という眉唾物もたくさんありますが、それぞれの党が魅力的な甘い言葉のマニフェストを掲げて道行く人々に訴えかけています。わたしは、平日朝6時半の電車に乗るために近鉄奈良駅へ行くのですが、ある政党の同じ方が毎朝その時間に、雨の中でも傘をささず、マイクを持たず、チラシを配るでもなく、ただよく通る大きな声で演説をしています。その時間駅前にはほとんど人は歩いていないのですが、人がいようがいまいが、なぜわたしたちがその政党を選ぶべきかを語り続けます。わたしはほぼ毎朝顔を合わせ、「いってらっしゃい。今日も良い一日でありますように!」なんて声をかけてくださるので、もし、わたしがどの党に投票するか迷っていたら、この党に入れちゃうかもしれないななんて思ったりします。本当に地道だけれど、支持者を集めるなかなかな戦略だと思います。

 話は変わりますが、最近、神戸教区のある教役者が全国の聖公会の教会リストを作り、それぞれの教会の住所と電話番号に加え、その教会にウェブサイトがあるか、そしてどういったSNSを使って情報を発信しているかということが一目でわかるようにしてくれました。多くの教会は、ウェブサイトがない、あるいはあっても残念ながらもう何年も更新しておらず、今本当に礼拝がなされているのかどうか分からない状態になってしまっています。そして、われらが奈良基督教会はと言えば、まず、ウェブサイト、ユーチューブチャンネル、フェイスブック、インスタグラム、ツイッター、これら全部やっていて、これは全国約300ある教会の中でもダントツです。あとはTikTokくらいでしょうか。何か月か前に、ネット宣教に非常に力を入れておられる某キリスト教系出版社の社長と話す機会があり、その方が奈良基督教会についてこう言われたんです。「ハタから見ると、伸びしろしかない教会に見える」と。「もっともっとネット宣教に力を入れて、存在を知らせるべきです」と激励されました。実は、説教動画やイエースくん動画作成を含め、ホームページ以外のSNSはほぼすべてわたしが管理していて、私個人のものを合わせるとほぼ倍の数になり、いろんなお知らせや報告を載せるのにすごく忙しくなりました。毎日早朝に駅前で政党の魅力を伝えるおじさんのように、毎朝教会の門の下に立って、笑顔でイエス・キリストを伝え、「どうぞ教会へいらしてください、ここはすべての方の居場所です」、なんて声高らかに語ることができたらいいのでしょうけれど、まあ、普通に恥ずかしいですし、なかなかそういうわけにいきません。ネットを使うと一発で世界中へ情報が飛び、今は勝手に翻訳までしてくれますから本当に手っ取り早く、必要としている人が情報を受け取ることができるのです。

 そうなると、気になりだすのが、それぞれのSNSに打ち出されるフォロワー数です。現在この奈良基督教会のユーチューブチャンネル登録者数は289人です。人気ユーチューバー、ヒカキンさんは1070万人ですから、まだまだです。というのは冗談ですが、一人でも多くの人に奈良基督教会という名前を知ってもらって訪ねてもらいたい、そしてここで神さまに出会ってもらってわたしたちと一緒に信仰生活を送ってほしい、そのように思うわけです。そうこうするうちに、そのフォロワーの数がちょっとずつ増えていくことに喜びを感じるようになりました。

 それちょっとちがうんじゃない?と気づかせてくれたのが今日の福音書です。ルカによる福音書は、今日の箇所、9章51節からイエスのエルサレムへの長い旅を語ります。エルサレムへの旅とは、すなわち十字架への旅です。その冒頭に書かれた今日の箇所からは、イエスの非常に切羽詰まった様子、焦り、いらだち、そして人間としての恐れのようなものが見て取れます。当時、イエスに従いたい、ついていきたいと思う人は大勢いました。この従う者のことを、英語ではfollower(フォロワー)といいます。わたしたちのように必死でフォロワーを増やそうとせずとも、いくらでもついてくるわけです。それほどのスーパーヒーローでした。しかし、イエスはそのフォロワーたちをどんどん増やすようなことはなさいませんでした。ある人が、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言うと、「あなたはこの道がどんなに厳しいかまるで分かっていない」という意味のことを語り、別の人が「従いたい、でもその前にまず父を葬りに行かせてください」と言うと、「既に死んでしまった者の葬りなど今のあなたがしなくてよい。わたしに従うのであれば、するべきことは神の国を言い広めることだけだ」と伝えます。もう一人の人が今度は、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族に別れを告げに行かせてください」というと、「わたしに従うこと以上に大切なものを持つ者は、神の国にふさわしくない」とピシャッと言い放つのです。

 みなさんはどう思われるでしょうか。わたしはこのイエスの言葉を聞いて、身が引き締まる思いがしました。わたしは、必死でイエスのフォロワーを増やそうとしている。しかし、わたし自身、本当の意味で主のフォロワーになれているのだろうか。何かあればすぐに、「いや、ちょっと待ってください。うちの子どもが、両親が、仕事が、、、」と神さまを後回しにして、自分の思いや願いに、神さまを上回る優先順位をつけてしまっています。

 先週の福音書の中でイエスは言われました。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである。」自分を捨て、自分の命を失うということは、何も死ぬということではありません。それはいちばん神さまが悲しまれることです。イエスに従うために、文字通りに父親の葬式などしなくてもいい、家族など捨てろと言われているわけではありません。そうではなく、何をするにも、神さまをあなたの心の中心におきなさいといわれているのです。イエスさまならどうなさるかを考えて行動すること、そして、すべての思い煩いを主に委ねるということです。主のフォロワーになる道はもしかしたらとても険しいものかもしれない。でも大丈夫です。既に死に勝ち、復活して天に昇られた主は、わたしたち一人ひとりに聖霊という強力な助け手、弁護者を送ってくださっています。その聖霊が主の愛を思い起こさせてくださいます。いつもどんなときも、心に神さまを覚えながら、行動し、言葉を交わしましょう。わたしたちのその言葉と行いの背後にキリストを見るとき、イエスのフォロワーは自然と増えていくことでしょう。