2024年10月13日<聖霊降臨後第21主日(特定23)>説教

「人間にできること」

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 マルコによる福音書10章17~27節

 今日の聖書の箇所は、ある人がイエス様の元に走り寄って来てひざまずき、イエス様にこのように尋ねた場面から始まります。「良い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」。「永遠の命」、難しい言葉です。聖書には何度もこの言葉が出てきます。ただどうしても、勘違いしてしまうこともあるかもしれません。「永遠の命」、それは不老不死、つまりずっといつまでも死なないことだと。しかしみなさんご存じのように、わたしたちの肉体は必ず滅びます。死はどんな人にも分け隔てなくやってきます。今日の福音書に出てくるイエス様に質問したこの人は、たくさんの財産を持っていました。でもいくら財産があろうとも、死は間違いなく訪れるのです。

 ミケランジェロの「最後の審判」という絵画があります。その絵の真ん中には復活されたイエス様がおられます。そして左側には、天国へと引き上げられていく人たちが描かれています。逆に右側には、地獄へと堕ちていく人たちの姿が描かれています。

 そしてこの絵の中でミケランジェロは、もう一つ、とても特徴的なことを書いています。それは左上と右上にあるものです。

 左上には十字架があります。大きな十字架に何人もの人がしがみつき、また下から引き上げられてくる人たちもその十字架を目指しているように見えます。

 反対に右上には、柱が描かれているんですね。その柱は折れていて、もうそこには建物がありません。そこにも何人もの人がしがみついているんですが、みんな今にも落ちそうです。この柱は、おそらく神殿の柱なのでしょう。しかしその神殿は見る影もなく、そこにしがみついている人たちは、地獄へと落とされていく。

 今日の箇所で、ある人はイエス様に尋ねます。「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」と。イエス様はその人に対して、十戒の教えをかいつまんで伝えます。「殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え」。ユダヤの人たちはこの教えを常に守っていました。たとえ形式的であったとしても、彼らは「自分たちは律法を守っている」という自覚はあったのです。でもそれであれば、どうしてイエス様に永遠の命のことを聞くのでしょうか。その人はこれで大丈夫なのだろうかという、常に不安を持っていたのでしょう。永遠の命と言われても、ぼんやりとしていてよく分からない。みんなと同じように律法を守っているつもりでいるけれども、果たしてそれでいいのか。本当に自分の力だけで天国に向かうことができるのだろうか。

 イエス様はそんな彼の心を見透かしたように、一番痛いところをついていきます。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」。それを聞いた彼は、悲しみながらその場を立ち去っていきます。なぜなら彼は、たくさんの財産を持っていたからだそうです。そしてそれを見たイエス様は嘆かれるのです。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか」と。

 ここまでお聞きになって、もしかしたらみなさん、ご自分のお財布事情を思い起こされているかもしれません。もしわたしが怪しい宗教の教祖で、この聖書の箇所だけを元に信者さんを洗脳しようとしているとしたら、「さあみなさん、財産を持っていたらダメなんですよ。さあ寄付しましょう。献金しましょう。そうしないと天国に行けませんよ。永遠の命をもらえませんよ」と言う所でしょうが、イエス様はそんなことを伝えようとしているのではないのです。

 今日の箇所に書かれていること、律法を守っているというその人の言葉と、財産を持っているという事実。その二つこそが、実は天国に向かう道であり、神さまの祝福が約束されているしるしでもあったのです。神さまから与えられた戒めをきちんと守ることで、自分を清いものとする。また財産が与えられているということは、「この人は神さまに祝福されている」ということを、自分だけではない、周りの人にも知らしめていることになります。

 弟子たちはイエス様の言葉に驚いて、「それでは、だれが救われるのだろうか」と互いに言い合ったそうです。それもそのはず、誰が見ても救われるに違いないと思われていた人が、うなだれながらその場から去らざるを得ない。「それでは誰が」と思うのも当然です。

 ここでもう一度、ミケランジェロの絵を思い出してみたいと思います。地獄に落とされていく右側の人たち、彼らは一生懸命なににしがみついていたでしょうか。それは神殿の柱です。神殿の柱にしがみついていた人たちは自分たちの力だけで、律法を守り、神さまの前に正しい者となり、祝福され、天国に入ることができると思っていました。しかし、そうではないのです。わたしたち人間は、誰ひとり、神さまの前に正しい者ではありえない。自分の力を捨てることも、自分の思いを捨てることも、そして自分の財産から自由になることさえも、無理なのです。「財産を捨てたら、みんな救われるよ」、そんな簡単なことではないのです。財産を捨てたとしても、他の所で何かあるかもしれない。人を傷つけているかもしれない。神さまに背くかもしれない。神殿にしがみついていたとしても、神さまの元には行けないのです。

 らくだは針の穴を通ることができるでしょうか。答えは「No」です。

 金持ちに限らず、どんな人も自分の力だけで神さまの国に入ることはできないのです。でもイエス様は、落胆する弟子たちに対して、一つだけ大きなヒントを与えてくれました。そのヒントは、わたしたちに対しても語られているものです。「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」。

 これがすべてなんですね。神さまの思いがあれば、何だってできるのです。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。ヨハネ福音書3章16節の言葉です。左上の十字架は、神さまの思いです。わたしたちを引き上げたいという、神さまのみ心です。その愛によってのみ、わたしたちは神さまのみもとで憩うことが許されるのです。「何をすれば」、「それでは誰が」、そのように思うことはないのです。わたしたちはただ、伸ばされたみ腕をしっかりと受け止め、心をノックし続けるイエス様を迎え入れるだけでいい。

 イエス様はそのためにこの世に遣わされ、十字架へと向かい、復活されてわたしたちと共に歩んでくださいます。そのことを信じ、わたしたちもまた歩んでまいりましょう。そしてすべての人たちの元に、神さまの愛が届けられますように。わたしたちにできることを、共におこなってまいりましょう。