「神さまの熱い思い」
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ヨハネによる福音書16章12~15節
今日、わたしたちは三位一体主日の礼拝をおこないます。三位一体とは父・子・聖霊、難しい言い方で言うと三つの違う位格を持ちつつ、それらは一つであるということです。パッと聞いただけではなかなか理解できないことですし、イメージもわきにくいです。三つのものなのに一つである。そのことはわたしたちに、不思議な思いを抱かせてしまいます。
教会には、この三位一体をモチーフにした意匠があります。屋根の丸瓦にはその一つ一つに三つ葉の文様が浮かび上がり、そしてその真ん中には十字架のしるしがつけられています。
そしてもう一か所、これは礼拝堂の中にあるのですが、お気づきでしょうか。実は聖書台のところ、横のところに三つ葉が彫られています。これも横から見ると、神社の屋根の形に似ているって言われることがあります。でもこの形は、本、聖書を広げて伏せたものです。そして横には、三位一体のシンボルである三つ葉がある。つまりこの聖書台も極めてキリスト教的な物なのです。
それほどまでに、この三位一体という考え方は、わたしたちキリスト教徒が大切にしていくべきものなのですね。洗礼を受ける前に学ぶ教会問答の中にも、使徒信経の主意として「父と子と聖霊の聖なる三位一体の神を信じること」と書かれています。
しかしわたしたちには、なかなか理解しづらい。その理由の一つに、この三位一体の考え方が、はっきりと聖書に書かれていないからだということがあげられます。たとえばイエス様が弟子たちに対して、わたしと神さまと聖霊とはこういう関係で、こうなっていてね、と丁寧に説明されていたら、まだわかったかもしれません。
そもそもこの三位一体という教理は、イエス様が天に昇られて400年近く経って確立されたものでした。それまでいろんな人がいろんな解釈をしてきました。神さまとイエス様との関係、聖霊とは何なのか。みんながそれぞれ好き勝手に考えていくので、様々な考え方が出てきます。でもそれはあまりよろしくない、ということで大きな会議が開かれ、「わたしたちの信仰はこうです」という柱が決められました。その大きなものが、この説教の後に毎週唱えるニケヤ信経です。この信経を唱えることで、わたしたちは同じ信仰を持つ仲間として、神さまの元に一つであるということになります。もっと言うと、この根っこになる信仰さえ一緒であれば、それぞれの違いはあって当然なのです。
昨日、奈良基督教会では3回目、桃山の時を合わせると6~7回目になるでしょうか、エキュメニカル礼拝とバーベキューがおこなわれました。いつも当日になるまで人数がなかなか読めないのですが、終わってみると大きな喜びに包まれます。準備は大変だし、わざわざ忙しい中でそのような企画をする意味がわからない。いろんな人から、そういう言葉を投げかけられます。牧師仲間からもそうです。「君ら夫婦、よくやるなあ」と半分あきれたように言う人もいます。
ところでわたしたち夫婦は、どうしてそのような他教派の人たちとの交わりを求めているのでしょうか。肉が食べたいから。それもあります。でも一番の目的は、神さまからいただいた恵みを、素直に隠すことなく分かち合えるということです。
キリスト教には、いろんな教派があります。カトリックや聖公会はどちらかというと、先祖代々信仰が受け継がれてきたという傾向があります。そのため、外に向かって信仰を伝える、いわゆる宣教ということが少し苦手なイメージがあります。
それに対してプロテスタント教会の多くは、個人の信仰を重視しているようです。特に福音派と呼ばれるグループになると、大きな礼拝の最後には招きといって、神さまを受け入れる決心を迫ったりもします。またいわゆる「単立教会」と呼ばれる教会もありますが、当然信徒がいないとやっていけません。
そんな牧師さんたちや信徒の方々と話すときに、話題は「神さま」になっていくわけです。神さまとの出会いを語ったり、今、何に対して祈っているのかという話がでてきます。そしてそれが変な自慢話ではなく、お互いがお互いを認め合いながら、その真ん中におられる方を賛美している。だからうれしいのです。同じ神さまに連なった仲間として、それぞれの場所で神さまを伝えているということが、勇気と希望を与えてくれるのです。
先日教会に、こんな質問が届きました。あなたの教会は5年後、どうなっていると思いますかと。信徒の数、献金額、増えているでしょうか、変わらないでしょうか、減っているでしょうか。
作った方には申し訳ありませんが、最初、目を疑ってしまいました。何を聞いているんだと。多分、多くの教会から減るという回答が出てくるのを予想して、ほら、教会はこんなに危機的な状況になっているんだぞと、そういう方向に持って行きたいのかなという感じですが。
教会に洗礼者が与えられるのは、一体どうしてでしょうか。神さまがその人を導いてくださったからではないでしょうか。人の力ではありません。牧師の力量でもないのです。また誰かが天に召される、逝去されるということも、みな神さまのご計画です。すべてのことには、神さまが定められた時があるのです。
だからちょっと生意気ですが、こう回答しました。「5年後に『減る』と見込むことは、神さまの働きを何一つ信頼していないことと等しいのではないでしょうか」と。「そういうことを聞いているんじゃない」という声が聞こえそうですが、どうしてもそのような思いを伝えたかったのです。神さまの思いは、わたしたちの思いをはるかに超えて素晴らしいのです。わたしたちの理解できないようなやり方で、わたしたちを平安へと導いてくださるのです。その大きな一つが、三位一体ということです。
三位一体とは具体的にどのようなことなのか、神さま、イエス様、聖霊はどのような関係なのか、そんなことは神学者に任せましょう。わたしたちがいずれ神さまの元に帰ったときに、その意味は分かると思います。
一つだけ言えることは、神さまは何が何でもわたしたちを救いたかったということです。愛する独り子イエス様を十字架につけてまで、そしてご自分の思いをわたしたちに伝えるため聖霊を一人ひとりに送ってまで、わたしたちを愛されているのです。その愛を知ったときに、わたしたちの心は熱くなるのではないでしょうか。それが父子聖霊のどの働きか、などということはどうでもいいことです。神さまがわたしたちに直接関わって下さる。そのことだけが大切なのです。
わたしたちは、もっと宣教を意識してもいいのかもしれません。イエス様が与えられた光を、隠してはいないでしょうか。神さまからいただいた賜物を、十分生かしているのでしょうか。来週から、緑の期節に入ります。緑が意味するのは、成長です。わたしたちの信仰が神さまによって強められ、これからも喜びをもって歩んで行けますように、お祈りを続けてまいりましょう。