2021年1月17日<顕現後第2主日>説教

「神さまに呼ばれて」

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ヨハネによる福音書1章43~51節

 今日、先ほど読まれた福音書には、フィリポとナタナエルが登場します。彼らの名前にはあまり馴染みがないという方も多いかもしれません。彼らはいったいどういう人たちだったのでしょうか。

 わたしたちが普段用いております新共同訳聖書には、「小見出し」が付けられています。そこには、「フィリポとナタナエル、弟子となる」と書かれています。彼らが弟子になったという物語が、顕現後第二主日の福音書として読まれたのです。

 顕現後の主日、それは神さまのみ心、思いがイエス様を通してわたしたちの間にあらわされていることを覚える主日です。イエス様の誕生によってまことの道を現された神さま。その神さまの思いを現すためにイエス様がまずなさったこと、先週読まれた洗礼を受けられたのちになさったことが今日書かれた出来事です。すなわち、誰かを弟子にするということです。

 一般的に弟子というと、どのような存在を思い浮かべるでしょうか。たとえば民族工芸品を作っているような人の元に行き、住み込みでその人の技術を学び、一人前になるまで寝食を共にする。そういうのは一般的な弟子の形でしょう。また今ちょうど大相撲がおこなわれておりますが、例えば二子山部屋に新弟子として入門する、なんていうのも立派な弟子の形です。それ以外にも、生け花や茶道、落語などなど、親方やお師匠さんと呼ばれる人の元に行って頼みこみ、受け入れてもらう。そのような関係性を思い浮かべます。

 ではイエス様と弟子との関係も、それと同じようなものなのでしょうか。今日の箇所の最初に、このように書かれています。

その翌日、イエスは、ガリラヤへ行こうとしたときに、フィリポに出会って、「わたしに従いなさい」と言われた。

 まず気づかされるのは、わたしたちが想像する「弟子入り」と、順番が違うということです。フィリポがイエス様のうわさを聞きつけて捜し出し、「どうかわたしもご一緒させてください」と頼み込んだわけではないのです。イエス様が偶然出会ったフィリポに対して、唐突に「わたしに従いなさい」と呼びかけられたのです。

 イエス様の弟子というのは、イエス様の方から声を掛け招かれた人たちなのだというのが、一つ目のポイントなのです。

 でも、と思う方もおられるでしょう。でもスカウトっていうこともあるじゃないかと。ちびっこ相撲で優勝したら、武蔵川部屋のスカウトがやってきた、なんていう弟子入りの形も確かにあります。

 しかしイエス様の弟子たちは、はっきり言って、「弟子にふさわしい人物」だとは客観的に思えない人たちです。これからイエス様が会堂などいろんな場所で福音を語るのであれば、その弟子には祭司や律法学者、ファリサイ派を加えておいた方がよかったかもしれません。だって彼らは、ものすごく学んでおり、ありとあらゆることに精通していたからです。

 またたくさん地域をまわるのであれば、その土地に詳しい人物や有力者、その関係者などを弟子として取り込んでおく。そういうことを戦略的に考えるでしょう。

 ところがフィリポとナタナエル、彼らに学があったのかどうか、何か他の人より秀でたものがあったのか、彼らじゃないといけない理由があったのか、それは一切書かれていません。もしかしたら何かあったかもしれませんが、聖書はそれを重要視していないのです。

 つまり、イエス様の弟子となる条件、それは何もないのです。年齢、性別、学歴、職歴、健康状態、一切問わない、それがイエス様の弟子なのです。その人がどんな人なのかは関係ありません。これが今日の二つ目のポイントなのです。

 イエス様は自ら声を掛けられた。その人が特別な人だとか、優秀だとか、お金持ちだとか、そういうことは必要なく、ただ単純に「わたしに従いなさい、わたしの弟子となりなさい」と声を掛けられた。それが今日のメッセージです。そしてその声は、ここにいるわたしたちにも届けられているのです。

 イエス様がわたしたち一人ひとりに対しても声を掛けられ、招かれている。わたしたちにはそのような感覚はあまりないかもしれません。けれどもこれは、まぎれもない事実です。わたしたちは今、自分の力で教会に連なり、礼拝に出席し、YouTubeの動画を見ていると思っているのかもしれません。

 しかしわたしたちは実は、わたしたちが思うよりも前にイエス様に招かれています。まずイエス様がわたしたちに目を向け、声を掛けられている。わたしたちの心のドアをノックし続けているのです。

 それはわたしたちが正しく、清く生きているからではありません。何のとりえもなくても、神さまに何度背いても、人に誇れるところが何もなくても、そんなわたしたちを、いや、そんなわたしたちだからこそ、イエス様は「わたしに従いなさい」と招かれるのです。

 だからわたしたち一人ひとりも、イエス様の弟子なのです。わたしたちは洗礼によって、キリストの祭司職にあずかります。祭司職の仕事、それは難しいことではありません。まずこんなわたしを用いてくださっていることを感謝しましょう。

 そして今、神さまの愛を知らない、イエス様の呼びかけに心を閉ざしている人たちに伝えるのです。「大丈夫、あなたのことをイエス様は招かれている」と。

 伝え方はいろいろあるでしょう。言葉や祈り、目には見えなくても、体から、心から、笑顔を通して。いろいろな形で神さまの愛を伝えるために、イエス様はこんなわたしたちを弟子とされたのです。

 ソーシャルディスタンス、三密回避、不要不急の外出を控える。様々なことが言われています。だからこそ今、わたしたちはイエス様の弟子として、歩むことが大事なのだと思います。イエス様の弟子として、周りの人と心の交わりを持つことが必要なのです。

 今、心の中に誰かの顔が思い浮かんだら、ぜひご自宅に帰って連絡をしてみてください。手紙を書いてみてください。その人のために祈ってください。 必ずわたしたちとその大切な人たちとの間に、イエス様はいてくださいます。