2022年6月19日<聖霊降臨後第2主日(特定7)>説教

「あなたはわたしを何者だと言うのか」

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 ルカによる福音書9章18~24節

 わたしたちの信仰とは、一体どういうものでしょうか。洗礼堅信式の中で、受洗、つまり水を注がれる前に、洗礼志願者は信仰告白を求められます。その式文の中では、3つのことを神さまと会衆の前で宣言することになります。その三つとは、天地の造り主、全能の父である神を信じること、この世の贖い主、み子イエス・キリストを信じること、そして命の与え主、聖霊を信じることです。これら三位一体の神の恵みを信じ、受け入れることが信仰なのです。

 今日の場面において、ペトロはイエス様がメシアであると告白しました。「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」というイエス様の問いに対し、弟子たちは答えていきます。「洗礼者ヨハネ」だ。「エリヤ」だ。「昔の預言者」だと。しかし続けてイエス様がこう尋ねられたときに、その場にはどのような空気が流れたのでしょうか。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」。さて、もしもみなさんがそう聞かれたならば、あなたはイエス様にどう答えるでしょうか。

 最近、何人かの方々から、そろそろ黙想会を開いてほしいというお話を伺っております。コロナも少しずつおさまってきている状況の中、ご一緒にできることを探しながら、準備していきたいと考えております。

 わたしは以前、こんな黙想会に参加したことがありました。その黙想会の講師をされた方は、聖書のいろんな箇所を示されて、そのときのイエス様のまなざしを想像するように促されました。漁師を弟子にしようとして声を掛けられたときのイエス様のまなざし、嵐の舟の中、「わたしたちがおぼれても構わないのですか」と叫ぶ弟子をたしなめたときのイエス様のまなざし、そしてペトロが三度、自分のことを知らないと言ったときのイエス様のまなざし。そのときのイエス様のまなざしはどうだったのだろうか。そのまなざしは、怒っていたのか、笑っていたのか。あきれていたのか、泣いていたのか。答えはありません。聖書には何も書かれていないのですから。でも参加したお互いで思いを語り合い、そのあと静かに自分の心と向きあうことで、イエス様のまなざしが少し近く感じられたように思えました。

 今日の場面、イエス様の最初の問いに対して、弟子たちは答えました。「洗礼者ヨハネ、エリヤ、昔の預言者」だと。その直後に「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」とイエス様が言われたときに、弟子たちはどんな様子だったのだろうか。イエス様の問いからペトロの答えまで、時間はどれくらい経っていたのだろうか。その間、どれくらいの沈黙が流れていただろうか。ペトロ以外の弟子たちはその間、どこを向いていただろうか。イエス様の顔を向いていただろうか。お互いに顔を向けていただろうか。うつむいていたのか。それとも顔を背けてしまったか。助けを求めるように、ペトロの方をじっと見つめていただろうか。もしあなたがその場にいたら、一体どこを向いていたでしょうか。

 ペトロが口を開き、言います。「神からのメシアです」と。その言葉を聞いた他の弟子たちの反応はどうだっただろうか。「何てこと言うんだ。冒涜だ」と内心思っただろうか。「先を越された。自分もそう思っていたのに」と思ったか。「アーメン」と同意したか。そのペトロの言葉を聞いたイエス様は、どんなまなざしでペトロを見つめていたでしょうか。「よくぞ言った、ペトロよ」とうれしそうにしていたか。「滅多なことを言うんじゃない」と怒っていたか。「本当に分かって言っているのか?」とニヤニヤしていたか。

 聖書を読むこと、祈ること、そして礼拝で説教を聞くこと、それらはすべて神さまとの対話だとわたしは思っています。神さまは必要なときに必要な事柄を、聖霊を通してわたしたちに伝えてくださいます。その呼び掛けは、わたしたちの心や体の状況に応じて変わっていきます。聖書を読むたびに違った思いを持つと言われる方、多くおられます。この前読んでいた時には気づかなかったけれども、今回読んでみるとこの言葉が心に残る。そういう経験をされた方もおられることでしょう。神さまはそうやってわたしたちを養い、導いてくださるのです。

 ペトロは「あなたは神からのメシアだ」とイエス様に告げました。メシアとは救い主のことです。ただの救い主ではありません。神さまに遣わされた救い主だと宣言しました。ペトロはここで信仰告白をしたのです。

 四六時中一緒にいたペトロだから、イエス様のことをよく知り、神さまのご計画が理解できた。だから信仰告白ができたのだと思うかもしれません。だとしたらわたしたちには無理。そこにたどり着くには、まだまだ聖書を読まないと。祈らないと。

 しかし聖書はわたしたちに伝えます。ペトロは信仰告白をしたけれども、何もわかってはいなかったという事実を。イエス様はペトロの信仰告白の直後、「誰にも言わないように」と釘をさした上で弟子たちに、ご自分が殺されること、三日目に復活することを伝えます。

 それらはすべて、神さまのご計画として語られました。イエス様は今回以降にさらに二度、ご自分の死と復活について弟子たちに伝えられます。しかし最後まで、ペトロを始めとする弟子たちには、その意味がわかりませんでした。わからないから恐れ、震え、扉の鍵を閉め、イエス様を見棄てていきました。

 つまりペトロの信仰告白は、ゴールではなかったのです。学科試験も実技試験もすべてパスして免許を取得した、ということではないのです。ただの入り口にすぎない。ペトロ自身、メシアの意味が本当にわかって口にしたとは到底思えない。でもそれでいいんです。その告白を、イエス様は喜んでくださるのです。

 今、わたしはこの箇所を改めて聞いたときに、こう感じました。ペトロは考え、考え抜いてイエス様のことを「神からのメシア」などと言ったのではなく、思いつくままに口にしたのではないか。もしかしたらペトロは自分でも、その言葉に驚いたのではないだろうか。でもその言葉をうれしそうに受け止めてくださるイエス様のまなざしを見て、心から喜んだのではなかろうか。

 きっとイエス様は、こんなわたしの信仰も喜んでくださるに違いない。神さまのことが本当によくわかっているわけでもない。口ばかりでおこないが足りないかもしれない。自分をなかなか捨てきれない。でもきっとイエス様は、わたしたちの思いをあたたかいまなざしで包み込んでくださるに違いない。

 みなさんは今日の箇所を、どのように聞きましたでしょうか。イエス様がわたしたちに向けて与えて下さる温もりを、ご一緒に感じていきたいと思います。そしてどうぞ、イエス様を受け入れてください。不完全で弱いわたしたちを招いてくださるイエス様と、共に歩んでまいりましょう。