「平地で語る」
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ルカによる福音書6章20~26節
本日は諸聖徒日として、この礼拝をおこなっております。諸聖徒日とは11月1日と定められた大祝日で、もともとは聖人や殉教者のことを覚えて祈る日でしたが、わたしたち聖公会では、天に召されたすべての信徒の方々やそのご家族を覚えてお祈りをする日としております。
さて、この諸聖徒日には2つの聖書箇所のうち1つを選択するということになっています。福音書はマタイ5章1節から12節、あるいはルカ6章20節から26節のどちらかということです。そこで今回は、ルカのほうを選びました。
ちなみにマタイはどのような内容なのか、マタイ5章1節から少し読んでみます。
イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」
これを聞いて、「あれ?」と思われるかもしれません。なぜならこのマタイの箇所、先ほど読まれたルカ福音書とよく似ているからです。確かに細かい違いはあります。「貧しい」と「心の貧しい」という違いや、「神の国」と「天の国」といったところ。
その他にも読み進めていくと、先ほど読まれた福音書には「不幸である」という列記が目立ちます。でもマタイ福音書には「幸いである」としか書かれていません。しかしそれにも増して大きな違いが、この二つの福音書にはあるんですね。
それは何かを説明いたします。今日のルカ福音書6章20節の少し前、17節から19節にはこのようにあります。
イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
この記述のあとに、今日の箇所が続けられているのです。つまりマタイ福音書では山に登ってお話をされていたイエス様、だからマタイのこの箇所は「山上の説教」と呼ばれているのですが、ルカでは山から下りてきて語られたということになっているのです。今のわたしの話を聞いて、「それがどうした?」と思う方も多いでしょう。「山の上で話そうが、平らなところで語ろうが、そんなのどっちでもいい。内容が重要なのではないか」と思われるかもしれません。でもそれだけではないんですね。
「山」という場所は、特に旧約聖書の中では特別なところだとされてきました。モーセが十戒を授けられたのは山でした。その場面では、モーセとヨシュアだけが山に登ることを許され、ほかの人たちはふもとで待っていなければなりませんでした。つまりそこからわかるように、「山」とは神さまと出会える場所、そして特別に選ばれた人だけが行くことのできる場所だということです。このような考え方はキリスト教だけでなく、様々な宗教の中にも見られます。
たとえば比叡山のような信仰対象の山があり、そこに修行をしに行ったりする。言い方に語弊があれば申し訳ないのですが、「神さまに近づくためには身を清め、山に登っていかなければならない」、そのような考え方があるように思います。
マタイ福音書はユダヤ人に向けて書かれたとされます。だから神の言葉は山の上から語られるべきだと考えた。果たしてそうなのかどうかはわかりません。でも今日、大事にしたいのは、「イエス様が平地に降りて来て、語られたことの意味」なのです。
この夏休みに、息子の乃亜と旅行をする機会が与えられました。行ったのは錦帯橋のすぐそばにある岩国城でした。ロープウェイに乗り、天守閣を目指しました。天守閣に登ると、素晴らしい景色が広がります。安土城や岐阜城でも感じたことですが、山の上にあるお城は領地を見渡せるようになっています。当然敵から襲われることがないように見張るという役割もあります。天守閣からの景色、それはさぞかしきれいだったことでしょう。季節ごとに木々は色づき、川の流れや遠くに見える海の青さ、すべては美しく、穏やかで、何もかも平和に見える。たまに山を登ってやって来る人は気心の知れた仲間。実はそれが「山の上」の景色なのです。
でもその中で、殿様が天守閣にい続ける限り、目に留まらない人がいたというのも事実です。傷つき、痛み、病に伏せ、生きる希望を見失った人たちがそこにいても、美しい自然や周りの人たちの笑い声がその現実を隠してしまう。山の上から目を凝らしても、そのような小さくされた人たちの姿は見えないのです。
では彼らが現状を訴えに、山に登ればいい、そう思うかもしれません。でもどうやって、山に登ることができるのでしょうか。ロープウェイを使っても汗だくになるほど大変なのに、足を引きずり、人と肩を貸しあい、登ることができるでしょうか。身を清める必要もあったでしょう。そこまでして山に登ることなど、多くの人には無理なのです。
イエス様はその人たちの、そしてわたしたちの状況に気づき、山を降りて来られました。そして平地で横たわり動けない人のために、悲しみにうずくまりじっとしている人のために、傷つき倒れ、神さまに嘆き続ける人のために語られたのです。
イエス様がこの地に来られたこと、それは神さまの大きな決断でした。そして十字架の死と復活により、遠く見上げる存在ではなく、共にいてくれる存在として、わたしたちと同じ場所に立ってくださるのです。わたしたちのいる「平地」まで降りて来てくださり、わたしたちを力づけ、歩ませてくれるのです。
その思いは、わたしたちだけではない、これまでに逝去されたすべての方々にも及びます。おひとりおひとり、様々な人生を歩んでこられました。神さまとのかかわり方もそれぞれ違います。でも一つ、共通していることがあります。それは間違いなく神さまは、すべての人を愛しておられるということです。
一人一人の手を握り、「あなたは幸いだ」、「あなたは幸いだ」と声をかけ続けてくださるイエス様の姿を、ぜひ感じてください。わたしたちの周りには、様々な苦難があります。痛みがあります。しかしイエス様はその状況をじかに感じ、その上で「幸いだ」と祝福してくださるのです。
その大きな愛の手に、わたしたちは身を委ねていきましょう。そしてわたしたちより先に天に召された方々とまた御国でまみえるその時を待ち望みつつ、与えられた日々をイエス様と共に歩んでまいりましょう。