「わたしたちの間に宿られた」
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ヨハネによる福音書1章1~14節
聖公会などの教派では、教会暦というものをとても大切にしています。教会暦とはその名の通り、教会の暦です。イエス様の誕生、そして十字架、復活を、毎年追体験していくというものです。この教会暦の中心となるのが、降誕日と復活日です。そしてそのどちらともに、その日を迎えるまでの準備の期間、紫の祭色の期間があります。降誕日の前は降臨節、いわゆるアドベント、そして復活日の前は大斎節といった具合にです。
つまり教会が大切にしているのは、ただ喜びの日を迎えればよいということではないんですね。喜びの日の前に、自分を顧みて、神さまを慕い求め、そしてその日を心待ちにするという準備の期間が大切だというのです。
このことは、ユダヤの一日の数え方も関係しているように思います。ユダヤでは、日没と同時に一日が始まります。つまり日が暮れて、暗闇が訪れたところで、新しい日がスタートするのです。わたしたちの習慣では、朝、目が覚めて、太陽の光を身体に浴びたときに、「一日の始まりだ」と考える方が多いのではないかと思います。でもユダヤではそうではない。暗闇から一日が始まります。そのことが何を意味しているのでしょうか。
聖書の最初に書かれている創世記の1章には、天地創造の物語が書かれています。その出だしはこのようになっています。
初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた。
このように、世界はもともと「闇」であったというわけです。そこに神さまは「光あれ」という言葉で、天地創造を開始された。暗闇の中に光が与えられたことで、わたしたちの世界は作られていったのです。天地創造は暗闇をベースにおこなわれていきました。
同じように、クリスマスの出来事も暗闇が大事になっています。今年も教会ではイルミネーションを飾っていますが、昼間に点灯してもほとんど目立ちません。暗闇があたりを包み込んで初めて、その光に気づかされるわけです。
クリスマス物語の中にも、光は登場します。野原で野宿をしながら夜を過ごしていた羊飼いの元には、まばゆいばかりの主の栄光の光と共に、主の天使と天の大群があらわれました。また東方の博士たちは、星の導きに従ってイエス様を拝みに行きました。羊飼いたちも博士も、暗闇の中に光を見つけました。その暗闇とは、単に夜の闇ということだけではありません。羊飼いたちは、毎日の生活に疲れ果てていました。抜け出したくても抜け出せない、そのような毎日の中、神さまが顧みてくださることを求め、憐れみをひたすら望んでいたのかもしれません。また東方の博士たちは、毎日星を眺めていました。救い主が来られることを、ずっと待ち続けていました。救い主の誕生を心待ちにし、贈り物も用意して、ずっと待ちわびていました。彼らの心の中もまた、暗闇が覆っていたのかもしれません。
今日の福音書の中に、このような言葉があります。「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」。ヨハネ福音書の冒頭は、「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」という一文から始まります。この「言」とは、イエス様のことです。
イエス様は、光として来られました。この世を照らす光として来られました。ただそれは、真っ昼間でもサンサンと輝くような光ではなく、暗闇の中にいて初めて気づくような小さな光なのかもしれません。小さく暗い家畜小屋で、飼い葉おけに寝かされ、温かいうぶ湯もなければ柔らかい毛布もない。そんな中にお生まれになったイエス様は、暗闇の中でしか見つけることのできない小さな光、しかし暗闇の中ではまばゆく光り輝く存在なのです。
けれども人々は、イエス様を受け入れることができませんでした。彼らは暗闇から解放されることを願ったからです。もう少し具体的に言うと、自分たちだけのための救い主を求めていたのです。敵は滅んでもいい。神さまに背く人たちも、神さまの掟を守れない人たちも、すべて神さまの怒りに触れればいい。自分たちだけが光の中に迎え入れられ、そして自分たちが平安に生きていく。それが人々の願いでした。しかしイエス様のご降誕はそうではなかったのです。暗闇の中でもがき、神さまの姿を見失ってしまった人にこそ、その光は必要なのです。それこそが神さまの思いであり、ご計画だったのです。
今年、教会では様々な「久しぶり」の行事をおこないました。コロナ禍の中、なかなか実施に踏み切れなかったことを、教会委員会や様々な会合で話し合いながら、なんとか実施できないのかと考えてきました。
2月に信徒総会を、対面でおこなうことができました。夏には北小松にキャンプに行くことができました。また奈良キリキッズフェスティバルという新たな試みには200名を超える方々が来てくださいました。また教会の有志の方々で、徳島に旅行にも出かけました。ひがしむき寄席、ピンクリボンコンサート、ミュージカル、二度のクリスマスコンサート、そして昨日はクリスマスイブ礼拝を、無事に終えることができました。数年前まで当たり前のようにおこなわれていた一つ一つの出来事ですが、数年やっていないだけでとても大変な労力を使い、また新たに気をつけないといけないことも出てきました。
今日の礼拝後の小さな祝会もそうです。考えてみますと、わたしたちの心の中には、飢えや渇きが生じてきたのかもしれません。自由にうどんを食べ、大声で笑い合っていたあの頃がそのまま戻るかは分かりませんが、やはりわたしたちは人との関わりの中で生きているのだと、この数年、深く考えさせられてきました。それを「暗闇」と簡単に言ってしまうのは、少し乱暴なのかもしれません。しかしわたしたちが迷い、悩み、交わりを求めるその中に、一筋の光が与えられ、わたしたちに温もりを与えてくださったこと、これはまぎれもなく事実なのだと思います。
今日の福音書の最後の方に、このような言葉があります。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」。
「み言葉は人となりわたしたちの間に住まわれた」、このような聖歌があります。神さまはイエス様を遣わされました。そのイエス様は太陽のように光り輝き、上の方から照らしてくれる存在ではありません。わたしたち一人ひとりの交わりの間に生き、働いてくださる方です。わたしたちの心の闇を知り、そのままの姿で受け入れ、照らしてくださる方です。
わたしたちの前には、まだ闇が晴れないかもしれません。しかしその中に光を求めましょう。必ず神さまはわたしたちを導いてくださる、そのことを信じ、歩んでまいりましょう。
クリスマス、おめでとうございます。