「自分の十字架」
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マルコによる福音書8章27~38節
今週読まれる福音書には、三回も同じ言葉が出てきます。30節の「戒められた」、32節の「いさめ」、そして33節の「叱って」です。いずれも原文のギリシア語では同じ単語が用いられていますが、新共同訳聖書では3種類の言葉に訳し分けられています。ペトロが「あなたはメシアです」と言っとき、イエス様はこのことを誰にも言ってはいけないと戒められ、イエス様が死と復活を予告したのを聞いてペトロはイエス様をいさめ、さらにそのような行動を取るペトロに対しイエス様は叱りました。
このように書くと、二人の信頼関係の中で穏やかに物事が進んでいるようにも感じます。「ペトロ~、そんなこと言ったらダメだよ~」、「イエス様~、そんなこと言わないでくださいよ~」、「こらこらペトロ、それはいけないよ~」、そんな感じにも聞こえます。しかしこの元々の言葉は、そんな優しいイメージの言葉ではないんですね。「厳しく𠮟りつける」という、たいへん強い意味を持つそうです。そのことを踏まえると、この物語は先ほどのような静かな会話ではなくなります。
ペトロを含む弟子たちは、イエス様のことをまったく理解していなかった。それなのに偉そうに言うペトロをイエス様は激しく怒り、逆にペトロは十字架なんか口にするイエス様を叱り飛ばした。それが聖書の伝えようとしていることなのです。
マルコ福音書は、「弟子の無理解」ということがテーマになっているのではないかと思うほど、弟子たち、そしてペトロは分かってない、ということが強調されるのです。そこには大きな理由があります。実際ペトロを含む弟子たちは、「イエス様とは何者か」という問いにきちんと答え切れていなかったのだと思います。頭では理解して、口先では正解を言っているようにも思いますが、本当の意味で理解していなかった。というよりも理解することができなかったのではないかと思うのです。
なぜ彼らはイエス様のことが理解できなかったのでしょうか。それはある思いが邪魔をしていたとも言えます。イエス様はこのように言われました。「あなたは神のことを思わず、自分のことを思っている」と。
先ほどのペトロの言葉、「あなたはメシアです」という答えは、ある意味正解でしょう。メシアとは救い主のことです。イエス様は救い主キリストです。それは正しい。でもその根底に、「自分のための」、「自分に都合のよい」という思いがあれば、イエス様のことを正しく理解できたことにはならないのです。
旧約聖書には、メシアを待望する記述が至るところに見られます。クリスマス物語を見ても、当時のユダヤの人々は、救い主の出現を今か今かと待っていたことがわかります。しかし彼らが望んでいたのは、自分たちを解放してくれる救い主でした。困窮から、病から、絶望から、そして敵から解放してくれる、それが彼らの望みでした。その願い自体は、決して間違ったものではありません。苦しみの中から救ってください。その祈りは、おかしいものではない。けれどもそこで、「わたしの」とか、「自分の」といった言葉が強調されたときに、それは神さまのみ心とはそれていくのだと思うのです。
わたしはこの奈良基督教会に遣わされたときに、とても感動したことがありました。何に感動したかといいますと、人の多さです。人、といっても礼拝に出席する人の数ではありません。この教会に訪れる人の数です。日曜日の朝、礼拝の準備をしていると、マリア館を目指してやってくる小学生がいます。お昼時になると、示し合わせたかのように園庭で遊ぶ子どもたちがいます。夕方になると、小さな子を連れた親子連れがやってきます。礼拝堂の見学をOKにすると、たくさんの人たちが階段を上がってきます。礼拝の途中でも、ちょっとのぞきに、また自分の子どもが歌っているのを聞くために、出入りする人がいます。礼拝中も、外で遊ぶ子どもの声が聞こえることがあります。
わたしは、素晴らしいと思います。こんなに恵まれた教会はなかなかありません。今、多くの教会から人が離れていき、声も聞こえず、普段はずっと門が閉まっている、それが現実になっている中でです。
でももし、イエス様の時代のユダヤ人がこの場にいたとしたら、どうでしょう。にぎやかでいいなあ、などと思ったでしょうか。そうはいかなかったと思います。礼拝こそすべて。教会はそのために建てられている。それは決して間違ったことではありません。しかしその「正しさ」の故に、人々が排除されていくのだとしたら、それはどうなのでしょう。
「あなたは神のことを思わず、自分のことを思っている」、この言葉の意味を、わたしたちは真剣に考えていかないといけないと思うんです。ユダヤ人たちが待ち望んだ神の国は、自分たちにとっては居心地のよい場所でした。同じ民族、同じ考え、そして同じように律法を守ることができる人だけが救われる、わたしたちも同じように願うのでしょうか。神さまのみ心がそうであるならば、そう願えばよいと思います。でもそうではない。神さまはわたしたち人間を救うために、イエス様を遣わされました。自分の元に集まってくる人だけに手を差し伸べたのではありません。すべての人のところに、神さまの恵みと愛を届けるため、イエス様を遣わされました。
そのことを、わたしたちは何よりも大事にしなければなりません。このたくさんの人が訪れる教会で、神さまの思いを具体的にあらわしていく。今はコロナでなかなか難しいですが、もっともっと外に向かって、わたしたちができること、たくさんあると思うのです。イエス様はすべての人に命を与えるために、十字架の道を進まれました。十字架の死を通して、そして復活のイエス様との出会いを通して、弟子たちはようやく理解しました。神さまの思い、そしてイエス様のなさったことの意味を頭ではなく心で、理解することができました。
そして、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエス様に従っていきました。わたしたちも同じことが求められています。ポイントは、「自分を捨て」ということではないかと思います。自分を捨てると聞くと、どのようなことを想像するでしょうか。
財産も地位も家族も捨て、裸一貫になることでしょうか。実はこの「捨てる」という言葉ですが、直訳では「否定する」という意味を持ちます。ただしこれは、自分自身を拒絶することや憎むことではありません。そうではなく自分勝手な思いや、自分を正当化する心を手放すことです。もっと簡単にいうと、神さまにすべてをお委ねすることです。イエス様は十字架を、すべての人のために背負われました。そしてわたしたちに、「あなたも自分の十字架を背負って従いなさい」と命じられます。自分の思いではなく神さまのみ心に思いを向け、すべてを委ねてイエス様に従うことを求められているのです。