「命のパン」
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ヨハネによる福音書6章37~51節
わたしは久しぶりの奈良基督協会での主日礼拝説教となります。前回わたしが日曜日にここでお話ししたのは7月21日となります。そのたった三週間の間に、様々なことがありました。先週日曜日まで北小松でおこなわれた教会キャンプでは愛餐式という、パンとぶどうジュースを分かち合う礼拝をおこないました。聖餐式と違うのは、洗礼を受けていない人もみんなで食卓を分かち合うというところです。愛餐会の中でみんなで焼き立てのパンをほおばり、ぶどうジュースをいただきました。
そしてもう一つ、この期間にお二人の方を神さまのみもとにお送りいたしました。7月21日、主日礼拝もお昼の会合も終わって少しホッとしていたときに、上野の信徒さんのご家族からお電話をいただきました。その数日前から頻繁にやり取りをしておりましたので、すぐに上野に向かい、夜遅くまでご家族たちと打ち合わせをし、次の月曜日・火曜日は上野に泊まり込んでお通夜とお葬式をおこなってまいりました。また昨日とおととい、参列くださった方も多くおられますが、この教会の信徒さんとの地上でのお別れがありました。つまりこの期間に、キャンプの中ではパンという食べ物について考え、そしてお葬式の中では死と命について深く思わされていました。
「命のパン」、今日の聖書箇所を読んだときに、わたしの頭をよぎった言葉です。「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」、今日の福音書にはこのような言葉が書かれていました。そもそもこの話の発端は、5000人の人を5つのパンと2匹の魚だけで満腹させたというイエス様の奇跡物語が発端でした。人々はそのとき、イエス様の不思議なみ業に驚き、興奮してしまいました。その結果、イエス様についてきていた人たちは勘違いしてしまったんですね。この物語は再来週まで続けて読まれますが、最初、人々はイエス様を王としようと画策します。しかしイエス様の話は何だかわからない、そして結果的に人々はイエス様から離れていったということが書かれていきます。
「命のパン」、わたしたちの目の前に今、目には見えないけれどもその「命のパン」が示されているとしたならば、わたしたちはどうするのでしょうか。そもそも「命のパン」とは何なのでしょうか。
北小松のキャンプ場で、わたしが何を考えていたかというと、どう切ったらうまく分けられるかということでした。端っこは小さくなる。少し堅い部分に囲まれたフワフワしたところはなるべくみんなに平等にあてたい。でもいざ切ってみると、まあバラバラ。キャンパーの皆さんは歌を歌っていましたから気づかなかったと思いますが、一人軽くパニックになりながらパンを切っていました。
でも、すごい気づきがあったんです。普段わたしたちは聖餐式の中で、同じ大きさのウエハースをいただきます。たまに大きな司祭用のウエハースが分割されたものが回って来ることもあるでしょうが、ほぼ毎週、同じ小さな丸いウエハースをいただいていると思います。しかしそのキャンプでの愛餐式のとき、前の人から順にパンを取りにくるわけですけど、結構考えたんですね。小さな子どもが取りに来たときには、フワフワの部分が多く、ちょっぴり小さいもの。ちょっと堅い外側が多いパンは、いつも食事のときに一杯食べているような人に渡す。一人一人の顔をさっと見て、「これはどうだろう?」とこっそり選びながら、気付かれないように渡す。
何かわたしが言うと「それがどうした」という感じでしょうが、何だかそれって、神の国の食卓を思い起こさずにはおられないのです。今日の箇所には、「わたしは命のパンである」というイエス様の言葉のあとに、「あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった」という言葉がありました。
出エジプト記にはそのマンナを集めるときの記事がこのように書かれています。「イスラエルの人々はそのとおりにした。ある者は多く集め、ある者は少なく集めた。しかし、オメル升で量ってみると、多く集めた者も余ることなく、少なく集めた者も足りないことなく、それぞれが必要な分を集めた」。
神さまはそのように、その人にちょうど合わせた分を与えておられたということです。神さまはたくさん食べることができる人には多く与え、少なく食べる人には見合った量を与えられる。堅いものも大丈夫な人には堅いものを、柔らかいものが必要な人にはそれを選んで与えられる。それが神さまの与えられる「命のパン」なのです。すべての人が神さまによって生かされる、そのことを神さまは望んでおられます。だからその人に合った、その人が必要としているパンを神さまは選び、わたしたち一人一人に手渡されているのです。
この「命のパン」は、神さまからの大きな恵み、賜物です。わたしたちはその恵みをいただき、自分の力に応じて用いている。そしてその恵みは、わたしたちの必要に応じて、与えられるのです。まさにオーダーメイドの「命のパン」が、わたしたち一人一人の手に渡されていくのです。その目に見えない神さまの恵みを、目に見える形で現したのが「聖奠」、サクラメントと呼ばれるものです。聖公会のサクラメントは、洗礼と聖餐です。わたしたちは洗礼によって神さまがいつもそばにいて下さるという約束を受け入れ、聖餐によって命のパンをいただき、日々生かされるのです。
そしてその約束は、わたしたちがたとえ死を迎えたとしても、ずっと、ずっと続けられます。お葬式は悲しいものです。たくさんの方々が、涙を流します。しかしわたしたちは、死の向こうにある希望を信じています。それは永遠に、「命のパン」が神さまの元で与えられる、神さまの元でいつまでも憩うことができるという約束です。
ヨハネ福音書はその「目に見えない約束」を信じることができずに、イエス様の元を離れていった人々の姿を描きます。目に見えるパンを求め、自分たちを目に見える敵から守り、そして目に見える王国を治める王を探していた彼らは、イエス様を受け入れることができませんでした。しかしイエス様は、そんな彼らのためにも十字架につけられました。自らの肉をささげ、わたしたちをいつまでも豊かに養う「命のパン」を与え続けるため、イエス様は神さまのみ心に従い、十字架へと向かわれたのです。
さて、わたしたちは何によって生かされているのでしょうか。そしてわたしたちはどこへ向かおうとしているのでしょうか。神さまはわたしたちが生きる者となるために、「命のパン」であるイエス様をお与えくださいました。その恵みに感謝し、わたしたち一人一人、神さまからいただいた「命のパン」を存分に頂きながら、歩んでまいりましょう。