「ひどい話がいのちの話に変わるとき」
YouTube動画はこちらから
ヨハネによる福音書6章60~69節
これまで三週間に渡って、ヨハネによる福音書6章に記された、イエスさまの「命のパン」に関する言葉を聞いてきました。「私は命のパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。私の肉を食べ、私の血を飲む者は、いつも私の内におり、私もまたいつもその人の内にいる。」これが中心となる言葉ですが、ここから、私たちは改めて聖餐に与ることの意味、そしてその素晴らしさを知り、また聖餐式を守り続けることが永遠のいのちを得るためにイエスさまから命じられたことであることを再確認します。
けれども今から二千年前、これらのイエスさまの言葉を直接聞いた人々はどうだったでしょうか。ここでイエスさまの話を聞いている人々とは、イエスさまから五つのパンと二匹の魚を分け与えられた同じ人たちです。人々は目の前で起こったまるで信じられないような奇跡を見て、イエスさまが何者か知りたい、またこのすごい人を逃してはならないという強い思いをもって、執拗にイエスさまを追ってきます。そんな彼らに対し、イエスさまは一生懸命説明されました。「私は天から降って来た生きたパンである。このパンを食べる者は永遠に生きる。」しかし、人々はこれらの言葉につまずき、今日の箇所で言うわけです。「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」。そして、「弟子たちの多くが離れ去り、もはやイエスと共に歩まなくなった」のです。
悲しいですね。でもこの箇所を読んで私はちょっとほっとするのです。もし、聖書がイエス様の言葉をすぐさま受け入れて救われる人たちの話ばかりだったら、それこそ、嘘臭く感じます。今ここにいる私たちの多くは、良くは分からないけれどもイエス様をなんとか受け入れて、信じようと決心して洗礼を受け、神さまの言葉をもっと聞きたいと思っているから教会に来るのです。でも、最初、「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と思ったことがある方も少なからずおられるのでないでしょうか。私がそうでした。
牧師家庭に生まれ育ち、幼児洗礼を受け、日曜日は必ず礼拝に出席し、13歳になったら当たり前のように堅信を受けました。聖書の神様が本当の神さまで、神社もお寺も偽物の神さまを拝んでいる。別にそう教えられた覚えはないのですが普通にそう思っていました。でも、15歳くらいになったとき、なんかおかしいと思い始めたのです。私は本当にこのイエス・キリストを神さまと信じているのだろうか? この非常識的な話がいっぱい詰まった聖書を本当の話と信じているのだろうか? この世界は6日間で造られた? アダムとエバの子どもたちの奥さんはどこから来たの? 進化論はどうなるの? マリアは聖霊の力で妊娠した? 水をワインに変えた? 湖の上を歩いた? 5つのパンと2匹の魚が五千人分に増えた? 十字架につけられて死んで、よみがえった? そして天に昇った? 「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか!」です。そして文字通り教会を離れました。海を越えてアメリカまで。もちろん高校から留学した理由はそれだけではないですが、信じないのにクリスチャンでいることの矛盾から離れたいと思ったのは確かです。
そしてしばらく放蕩娘をした後、教会へ戻ってきてからも、つい最近まで、聖書のあちこちを拾っては「実にひどい話だ。だれがこんな話を聞いていられようか」と感じていました。怒られるかもしれませんが、今でも思うことあります。例えば今日の旧約聖書ヨシュア記(24:14-25)、「もし、あなたたちが外国の神々に仕えるなら主はあなたたちを滅ぼし尽くされる。あなたたちのもとにある外国の神々を取り除き、イスラエルの神、主に心を傾けなさい。」と書かれています。こういう箇所から、おうちに昔からある仏壇や神棚を焼いたり、お雛様まで焼かなければならないと指導している教会も数ある教派の中にはあります。そんなひどい話ないでしょ、と本気で思います。愛の神さまなのです。家族が大切にしている信仰を尊重できないで何が神に従うだと私は思います。
本日の使徒書(エフェソ6:21-33)はどうでしょう。これ実は、祈祷書に、聖婚式の中で読まれる聖書箇所の選択肢の一つとしてあげられています。最近はあまりここを選ばれる方ないですけれども、腹が立ちます。互いに仕え合いなさいの後、「妻たちよ、主に仕えるように、自分の夫に仕えなさい。キリストが教会の頭であり、自らその体の救い主であるように、夫は妻の頭だからです。」そして、夫はどう言われているかというと、「キリストが教会を愛し、教会のためにご自分をお与えになったように、妻を愛しなさい」です。仕えると愛する、ここには完全に上下関係があります。当時の男尊女卑が当たり前の社会においてパウロが言ったことなのですから、これは当然なんです。でも、今これをそのまま告げられたら、多くの女性は、もちろん全員ではないでしょうけれども「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」となります。少なくとも私は。
聖書には、実にひどい話が多いのです。矛盾もたくさんあります。じゃあ、どうすればいいのか。おかしいと思う箇所は全部飛ばせばいいのでしょうか? 2024年に生きる私たちの耳に心地よく入ってくる箇所だけを選んで読めばいいのでしょうか? この疑問を胸に、イエス様の言葉をもう一度聞いてみましょう。
今回、イエス様が「私は命のパンである。私の肉を食べ、私の血を飲みなさい。そうすればあなたは永遠の命を得る」と言ったことに対して「実にひどい話だ。誰がこんな話を聞いていられようか」とつぶやいた弟子たちに、彼はこう言われたのです。「命を与えるのは霊である。肉は何の役にも立たない。」これはどういう意味なのでしょうか。新共同訳聖書では、霊という文字に“ ”がついています。これはただの霊ではなく、聖霊を意味することを示しています。つまり、イエスという人が如何に素晴らしい人間であるかということを認めたとしても、イエスを聖霊によって受け入れなければ意味がないし、永遠の命に至らないということなのです。そして、更に言われます。「私があなたがたに話した言葉は霊であり、命である」と。とても難しく聞こえますが、要は、イエス様ご自身も、イエス様の語られるみ言葉も、聖霊の力によらなければ、私たちには「ひどい話」として入ってしまうかもしれないということです。頭で理解しようとして、あるいは何かいいもの、役に立つものを得ようとして聖書を読んでいたら、必ず「ひどい話だ」となる。そうならないために、色々理屈をつけて、これはこう言う意味だとか、その時代はとか、原語ではとかいう説明がなされていくわけですが、結局のところ、無理があります。神さまの思いや神さまのご計画を人間の言葉にしようという時点で無理なんですね。
私たちに招かれているのは、もう、素直に、子どものような心で、すべてを委ねてみ言葉を受け入れるということです。ただし、そのまま受け入れて、そのまま今生きている世界で役立たせようとするのではなく、そのみ言葉を通して今の私に必要な、大切なメッセージを聖霊の力によって届けてもらわなければなりません。そう祈っているうちに、聖霊は私たち一人ひとりに復活のイエス様に出会わせてくださいます。
そうしたら、自然に分かってきます。頭でわかるのでなくて、心でわかる。天地創造の物語は私たちに何を伝えようとしているのか、外国の神々を取り除き、主に心を向けなさいということがどういうことなのか。主に仕えるように夫に仕えなさいとは何を意味しているのか、また、イエス様の起こされた奇跡をどう捉えるのか、イエス様が処女からお生まれになったということ、十字架につけられ、三日後によみがえり、40日後に天に昇られた、これらのことは私自身にどうかかわるのか、それらのことが砂漠の真ん中で冷たい水を飲んで、からからに乾ききった体の隅々までその冷たさが行き渡るように、私たちの心に沁み込んでいきます。これこそが、イエス様の言われる、命を与えられるということなのです。「ひどい話」が「いのちの話」に変えられる瞬間です。
聖書は、たぶん、分からないところは分からないでいいのです。最近子どもたちとディズニーのアニメ「インサイド・ヘッド2」を見てきました。脳の中には、ヨロコビ、カナシミ、イカリ、シンパイ、ハズカシといったいろんなキャラクターがいて、それらが大活躍して主人公の思春期の女の子を成長させていくという物語なのですが、それを思い出しました。聖書を読みながら、ムカムカとかイカリとかそういったネガティブなキャラクターが頭の中に出てきたら、自分の脳内にはない助けを外に求めるのです。聖霊よ、来てくださいと。
私たち牧師が説教として話す言葉も同じです。「ひどい話」と捉えられる時も当然あります。本当に申し訳ないと思います。それでも私たちは聖霊の力を借りて福音を語らなければなりません。ですから、説教の前に必ず、これから語る私の思いと言葉が神さまのみ心に適いますようにと会衆の皆さんと共に祈り、礼拝後にはべストリーで、サーバーの皆さんと奉仕の中で間違ったことがあれば神さまが補い、正してくださいと祈ります。
私たちは聖霊なくして神さまの言葉を頂くことも、語る事もできないということを心に留めながら、今日もこうして教会に集められたことを感謝し、また一人でも多くの方に、それぞれのやり方で福音を知らせていければと思います。