2025年6月29日<聖霊降臨後第3主日>説教

「火ではなく、霊の実で応える人に」

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 ルカによる福音書9章51~62節

 今日の福音書、「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」という一文から始まっています。ここは、ルカ福音書全体の転換点であり、イエス様のエルサレムへの旅が、「死」に向かうものであることが強調されます。イエス様と弟子たちがいたガリラヤ地方とエルサレムまでは直線距離で120キロ、その間には、サマリアという地域がありました。サマリア人とユダヤ人は、紀元前8世紀ごろから政治的、宗教的な確執があり、互いを敵対視していました。ですから、ガリラヤ地方に住むユダヤ人はエルサレムに行くのに、直線状にあるサマリアは通らずに、ヨルダン川沿いを通って行くのが普通でした。途中で襲われる危険性もあったからです。けれども、イエス様は、敢えてサマリアを通ることを選びます。最短ルートで行きたかったということだけではないようです。イエス様は、この異邦人の地へ行って、自分たちを敵視する人たちへも神さまの福音、「あなたがたは神さまに愛されている」ということを伝えたかったのだと思われます。イエス様の宣教は、いつもどこかの家に泊めてもらって行われていましたから、今回もそのつもりで、弟子たちを先に遣わしました。宿と食事の準備をしてもらうためです。

 しかし、「村人はイエスを歓迎しなかった。イエスがエルサレムを目指して進んでおられたからである」とあります。「エルサレムを目指す」ということはユダヤ人の信仰とアイデンティティそのものでした。歴史的にユダヤ人に裏切られ、宗教的には敵とみなされていたサマリア人たちにとって、エルサレムへ行く人が自分たちの村を通過するということは、許しがたい挑発と捉えたにちがいありません。

 それを見た弟子のヤコブとヨハネの兄弟は憤慨します。「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか!」実はこれ、今日の旧約聖書にも出て来たエリヤが、実際にサマリアの王から送られた50人の兵士たちに対して天から火を降らせて焼き尽くしたという大昔の出来事を思い起こして言っているのです。旧約の時代、預言者たちは、敵や神の言葉に聞き従わない者たちを裁き、神の罰を降らせるということがよくあったわけで、それをヤコブとヨハネもよく知っていたのでしょう。

 ところが、イエス様は、「振り向いて二人を戒められた」とあります。二人を叱るとき、別の写本には、「私は人の命を滅ぼすためではなく、救うために来たのだ」というイエス様の言葉が加えられているものがあります。旧約の時代、神さまと言えば、悪いヤツ、言うことを聞かないヤツは滅ぼしてしまえというイメージがあったのを、そうじゃない、神さまは愛のお方なのだということを知らせに来てくださったのだということがここからも読み取ることができます。

 さて、今の世の中の情勢、どうでしょうか。私はこの説教壇から神さまの言葉を語るのに政治的な問題や社会問題を絡めて話すことは極力したくないといつも思っていますが、今回ばかりは少しだけ言及させてください。私たちの世界には、「危険を感じたら、先に滅ぼす」という力の論理があります。先週の日曜日、アメリカがイランへ攻撃をおこないました。まさにそれです。イランはアメリカを敵視し、今核開発を行っている。危険だ。敵意に対して「抑止」と称して攻撃がなされたのです。ヤコブとヨハネが言った「火を降らせましょうか」という、旧約時代に見られた「正義の怒り」と同じです。

 私たちはまだ旧約の時代にいるのですか? 私たちは裁きの神に従う者なのですか? 違いますよね。私たちは、神さまは愛であることを教えてくださったイエス・キリストに従う者です。このことは、はっきりと今日の使徒書、ガラテヤの信徒への手紙5章に書かれています。「愛によって互いに仕えなさい。律法全体は、『隣人を自分のように愛しなさい』という一句によって全うされるからです。だが、互いにかみ合い、共食いしているのなら、互いに滅ぼされないように注意しなさい。」パウロは言います。「肉の欲望を満足させるのではなく、霊の導きに従って歩みなさい」と。5章19節から肉の業が列挙されていますが、その中に、「敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い」などが並びます。これはまさに、ヤコブとヨハネ、そして今生きる私たちがこの世界で示している姿です。でも、イエス様はこの道をはっきりと拒まれたのです。

 それを、パウロは「霊の結ぶ実」として次のように挙げています。「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」。これこそ、イエス様がサマリア人に拒絶された時に見せられた態度です。怒りではなく寛容、支配ではなく節制、報復ではなく愛。これは弱さではありません。聖霊の力による生き方です。トランプさんとネタニヤフさんは声をそろえて言います。「まず力が来て、それから平和が来る」と。力による平和、それは、武力によって屈服を迫った結果です。それを私たちは平和と呼ぶのでしょうか? 少なくとも、キリストの平和ではありません。

 イスラームもユダヤ教も、イエス様を私たちが信じるようには受け入れていません。でも私たちは知っているのです。イエス様が、サマリア人に拒絶されても怒らず、暴れず、ただ静かに歩みを進めたということを。そしてその先にあったのは、私たち一人ひとりを思っての、十字架の愛と復活の命であったということを。

 福音書の後半、イエス様は「あなたにどこまでも従います」とついてくる人々に対し、厳しい言葉をかけられます。その人たちは、そう言いながら、「でも、まず自分のしたいことをさせてください、それから従います」と言ったからです。イエス様はそれに対し、十字架の道を歩むのは、そんな生半可な気持ちでは無理だと言われたかったのでしょう。どんな思いでイエス様が私たち一人ひとりのためにこのエルサレムまでの道のりを歩かれたのかということがうかがい知れます。

 私たちは弱い人間です。イエス様に倣って生きたい。イエス様ならどうするかをいつも心に刻んで歩みたい。そう思うけれどもできない情けない弱い人間です。それでも、あきらめずに、ついて行きましょう。前の方を進んでいかれるイエス様のみ姿を見失わないように、しっかりと目を凝らしながら。時々はイエス様を見失ってしまうかもしれません。でもそんな時も、神さまは赦してくださるし、神さまの霊が後ろから追い風となって私たちを進ませてくださいます。怒りたくなった時、今日のイエス様を思い出したいと思います。

 神さま、私たちが自分の正しさや怒りに流されるのではなく、あなたの霊の実を結ぶ者として歩むことができますように。怒りではなく愛、争いではなく平和を生み出す者としてください。