2025年5月18日<復活節第5主日>説教

「互いに愛するということ」

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 ヨハネによる福音書13章31~35節

 先週教会では、「みんなでささげる礼拝」をおこないました。最後の陪餐を主眼においた聖餐式ではなく、5000人の供食を思い起こさせる愛餐式という形で、すべての人と神さまから頂いた恵みを分かち合うというものでした。司式や聖書朗読、奉献では子どもたちも奉仕してくれ、また普段の礼拝では見られないバンドによる演奏も加わり、いろんな方から良い感想をいただきました。もし先週残念ながら出席できなかった方も、ぜひ次回の「みんなでささげる礼拝」にはお越しください。

 さて、ではなぜわたしたちはそのような礼拝をするのでしょうか。それはイエス様が、すべての人を招いておられるからです。人種や民族にとらわれることなく、性別、年齢、職業などあらゆる壁すべてを超えて、自分の元に来るようにとイエス様は語られます。そしてイエス様に従うわたしたちには、このように命じられるわけです。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。」と。これはマタイによる福音書20章19から20節にある「大宣教命令」と呼ばれるものです。自分たちだけ、仲間内だけで神さまを賛美するのではない。それも大切だけれども、その賛美の声を広めていく。その宣教の働きがわたしたちには求められているのです。

 さて、今日の福音書を見てみたいと思います。聖書の小見出しには、「新しい掟」と書かれている箇所です。

 「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」。このようにイエス様は語られました。「互いに愛し合いなさい」、それが新しい掟だというのです。ただここで、「おやっ」と思う方はおられないでしょうか。「新しい掟」とわざわざ言われるわけですから、何か目新しいことを示されると思ったら、「互いに愛し合いなさい」。「え?そんなことですか」と思った方もおられるかもしれません。

 たとえばユダヤ人が大切にしていた十戒、そこには神さまに対して、そして隣人に対しての戒めがあります。

 これらの十戒、律法の言葉をどう理解していくのか、そのことについてイエス様に対して問答を仕掛けてきた人がいました。ルカによる福音書10章25節以降にそのことが書かれています。少し最初の方を読みたいと思います。

 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」

 この律法の専門家は正しい解釈をしていたようです。その解釈とは、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」というものでした。簡単にいうと、神さまを愛し、隣りにいる人を愛しなさい、そういうことだというのです。つまりイエス様が「新しい掟」を伝える前に、すでに「互いに愛し合いなさい」ということは、いわば“当たり前”のこととして考えられていた。そう言えるのです。

 では何が新しいのか、そのことを考えるときに、今日読まれた使徒言行録にも目を向けてみたいと思います。今日の箇所は13章44~52節です。パウロは安息日ごとに、会堂で語っていたようです。すでにパウロは回心し、イエス様の十字架の福音を熱心に伝えていました。会堂にはユダヤ人もいれば、ユダヤ人以外の人たち、聖書では彼らのことを異邦人と呼びますが、そのような人たちが一緒になってパウロの話に耳を傾けていたようです。

 ところがそこで、ある問題がおきます。パウロはこのように語りだしました。「イスラエルの人たち、ならびに神を畏れる方々、聞いてください」と。イスラエルの人たち、つまりユダヤ人は、これが面白くなかったのです。「ならびに神を畏れる方々」というのは、異邦人のことです。パウロはそのような人たちと自分たちを同列において語っている。神さまの福音は、自分たちユダヤ人にまず与えられるべきではなかったのか。その思いが彼らに「妬み」という感情を引き起こさせたのです。彼らは自分たちユダヤ人、同胞と呼ばれる人たち、そこに神さまの愛は注がれる。その中で愛を分かち合えばよいと考えていたのです。

 パウロとバルナバは、イエス様の福音はそうではない、すべての人たちに届けられるべきだと考えます。結果としてパウロたちは迫害され、その地から追い出されました。しかし彼らの働きがあったからこそ、わたしたちのところにも福音は届けられたのです。「互いに愛し合いなさい」と言われたイエス様の掟は、誰か特定の人たちのためではなく、すべての人たちのためのものだとパウロたちが気づかされたからこそ、わたしたちもその愛の中に生かされているのです。

 すべての人が愛の対象となる、それが新しい掟です。自分に近い人だけではなく、自分と同じ考え方をする人だけでもなく、家族だけではなく、言葉の通じる相手だけでもなく、すべての人が、「互いに愛する」、その対象なのです。

 説教の最初の方で、律法の専門家がイエス様を試そうとして問答を仕掛けた話をしました。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」と答えた律法の専門家に対し、イエス様は「正しい答えだ。それを実行しなさい」と言われました。その続きとしてイエス様は、良きサマリア人のたとえを語られたのです。民族が違い、ユダヤ人と憎しみあっていたサマリア人。しかしサマリア人の彼は、強盗に襲われて倒れているユダヤ人をほおっておくことができなかった。手を差し伸べ、介抱し、宿屋に連れて行って、その代金まで支払う。それが「お互いのことを愛する」本当の姿なのです。

 「新しい掟」のことをそう考えると、とても大変なことのように思います。すべての人を愛すること、とてもハードルの高いことです。しかし合わせてイエス様は言われていました。「わたしがあなたがたを愛したように」と。

 自分の力だけでは無理かもしれない。でもまず、イエス様が愛して下さる。神さまの愛がわたしたちの上に、洪水のように注がれる。その愛を、分かち合うのです。その愛の、おすそ分けをするのです。そのことによってわたしたちは、新しい愛の関係へと組み込まれていく。そのことを喜びましょう。そしてわたしたちの隣にいる人たちに、その愛が注がれますように、わたしたちがその器として用いられますように、お祈りしていきましょう。