2024年1月7日<顕現後第1主日・主イエス洗礼の日>説教

「わたしたちの間に」

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 マルコによる福音書1章7~11節

 新しい年が始まり、初めての主日礼拝となります。昨日の顕現日までのクリスマスシーズンが終わり、今日からは顕現後の主日が始まります。そして顕現後第1主日は、イエス様が洗礼を受けられたことを覚える「主イエス洗礼の日」でもあります。

 今日の福音書は、マルコ1章7節から11節でした。そこにはイエス様が洗礼を受けられた場面が描かれています。イエス様はガリラヤでの活動を開始される前に、洗礼者ヨハネから洗礼を受けられたのだと、聖書は伝えます。イエス様はなぜ洗礼を受けられたのでしょうか。そもそも洗礼とは何なのでしょうか。祈祷書の中にある「教会問答」には、このように書かれています。

 「洗礼とは何ですか」という問いに対して、「聖霊の働きによって、わたしたちがキリストの死と復活にあずかり、新しく生まれるための聖奠です」という答えがあります。つまり洗礼を受けた人は、イエス様によって罪の鎖から解放され、そして新しく生かされていくということでしょうか。だとしたら、なおさらイエス様ご自身がどうして洗礼を受けなければならなかったのか、その疑問は大きくなるように思います。イエス様が罪深かったのか、新しく生まれなければならなかったのか。

 そのことを考える中で、1月1日にとても心が痛くなる出来事が起こりました。午後4時過ぎ、能登半島で発生した地震は最大震度7を観測し、大変な被害をもたらしました。多くの方が被害に遭われ、建物も倒壊や火事により無残な姿になっていました。避難所で救援物資を待っている人たち、未だ大切な人の行方がわからない人たち、そして目の前で愛する人を亡くしてしまった人たち。テレビやネットでの報道を見るたびに胸が締め付けられ、言葉を失ってしまいます。このようなときに、牧師は一体何を語ればいいのか。正直、とても苦しいです。でもきっと神さまがわたしに語るべき言葉を与え、そして聖霊の働きによってみなさんの心に届くのだと信じています。

 おととい、金曜日に幼稚園では始業礼拝をおこないました。毎学期教職員の方々と、この礼拝堂で礼拝をします。式文は前の学期には出来ており、その選んだ聖書箇所にあわせた短いメッセージもいたします。木曜日に、そのメッセージの準備をしました。といいましても、なかなか取り掛かることができずにいました。それは多分、わたしがメッセージを語ることから、知らないうちに逃げていたからなのだと思います。ようやくパソコンを開き、取り掛かることにしました。聖書箇所を入れた式文はクリスマス前には作成して主任の先生に渡していたので、すっかりどの箇所を選んだのかさえ忘れていました。パソコンを開けて、式文を印刷しました。目に飛び込んできたのは、ローマの信徒への手紙12章15節にあるこの言葉でした。「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。なぜこの箇所を選んだのすら記憶にありませんでしたが、この「泣く人と共に泣く」ということが、今、まさに神さまから与えられたメッセージなのだと深く感じました。「泣く人と共に泣く」、それは、悲しみを共有し、一緒に心を痛めることです。そして神さまは、わたしたちの間でそのように、つまり共に喜び、共に泣く者として、イエス様をお与えになったのです。

 イエス様はガリラヤで福音を宣べ伝えられる前に、洗礼を受けられました。「罪を悔い改めよ」と叫ぶ洗礼者ヨハネの元には、たくさんの人たちがやって来ました。彼らは罪の赦しを得ないと、裁きが待っていると思いました。それは自分自身が罪にまみれているという自覚があったからです。彼らはヨハネの前で、罪の告白をしていきました。言うなれば、洗礼者ヨハネの前に出来た洗礼を求める人々の列は、罪びとの列です。そしてイエス様はその列に並ばれたのです。それはイエス様ご自身が、罪のただ中に身を置かれたということなのです。どうしてそうする必要があったのでしょうか。そこが今日、聖書がわたしたちに伝えたい一番のポイントなのかもしれません。

 よく、こういうたとえをします。わたしたちは人生の中で、ときに大きなぬかるみに入り込んでしまうことがあります。ちょっとした水たまり程度のものであれば、簡単に抜け出せるかもしれません。でもそれが底なし沼のように、どんどん沈み込んでしまうものだったらどうでしょう。もがけばもがくほど、泥が身体を飲み込んでいってしまう。何かにしがみつこうにも、真っ暗で何も見えない。声を出そうにも手足をバタつかせるのに必死で、そこまでの余裕もない。そのような状況に落とされたときに、わたしたちは何を求めるでしょうか。どこか高い所からの応援でしょうか。その声が聞こえたところで、何になるでしょうか。ではロープか何かを投げ込まれて、「これにつかまれ!」と言ってくれるとどうでしょう。そのロープを手繰り寄せるだけの体力が残っているのであればいいのですが、そうでないときにはどうしたらいいのでしょうか。

 イエス様が人々の列に並んで洗礼を受けられた意味、それはわたしたちがもがき、苦しんでいるその中に、イエス様ご自身が来てくださったということです。イエス様自らがぬかるみに身体をうずめ、泥だらけになりながら、わたしたちを抱きかかえるために、神さまはイエス様をお遣わしになったのです。わたしたちがいるその場所に、わたしたちと共に歩むため、わたしたちの間に来てくださる。それがイエス様です。先週お話しした、「わたしたちの間に住まわれた」という意味がここにあるのです。

 そしてイエス様は、傷つき、悲しみの中にある人、生きる力をなくしている人、神さまにすがるしかない人、そのような人たちのそばにおられました。そしてイエス様は、深く憐れまれました。

 「深く憐れむ」、その言葉は、はらわたが痛むという意味です。内臓がちぎれるような、胸が張り裂けそうなことを、聖書では「深く憐れむ」と書きます。イエス様は何度も、何度も、深く憐れまれました。その憐れみは、わたしたちにも、そして今、一番イエス様を必要としている人たちにも、向けられています。泣いている人がいたら一緒に涙し、傷ついている人がいたら一緒に傷つき、苦しくて叫んでいる人がいたら一緒に叫ぶ。

 そのような方がいるということに、どうか気づいてほしい。気づかなかったとしても、イエス様、あなたはすべての人を分け隔てなさらない方です。どうか、傷つき、悲しんでいる人の間にいてください。そして慰めを、癒しを、温もりを、どうか与えてくださいと心から祈ってまいりましょう。

 そしてわたしたちに出来ることは何なのか、お示しくださいますように。わたしたちに出来ることは限られているかもしれません。しかし神さまにすべてを委ねれば、神さまはわたしたちを大きな器として用いてくださいます。そのことを信じて、わたしたちに出来ることを祈り求めていきましょう。

 わたしたちを愛してくださる神さまがすべての人を顧み、深く憐れんでくださいますように、お祈りを続けます。