「あなたがたは幸いである」
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マタイによる福音書5章1~12節
先日、わたしが法人の理事を、そして妻のみさが管理牧師をしている鈴鹿聖十字会、菰野聖十字の家に一緒に行ってきました。去年行かれた方も多い場所ですが、新しい施設ができたので、その建物の竣工式をしてほしいとのことでした。その施設は既存の建物を改修したのですが、元々あったのはホスピス、緩和ケア病棟でした。わたしは牧師になる前に、菰野聖十字の家で働かせていただいておりました。わたしが働き始めたとき、ちょうどホスピスが開業して2年目だったと思います。三重県では初めてのホスピスということで、経営的にも大変苦労されていました。
そのときのことを思い起こしながら、今回の竣工式に向かいました。礼拝をする場所は以前のまま残っていました。そしてそこには本棚があり、たくさんの本が並んでいました。どんな本があるのだろうかと、わたしはそれを眺めていました。
一冊の本に目がとまりました。その本のタイトルは、「千の風になって」でした。みなさんも覚えておられるかもしれません。2001年にアメリカで書かれていた詩が翻訳され、2006年には紅白歌合戦でも歌われました。
「私のお墓の前で 泣かないでください
そこに私はいません 眠ってなんかいません
千の風に 千の風になって
あの大きな空を 吹きわたっています」という歌です。
この歌について、いろんな思いが心の中を駆け巡ります。そしてわたしは、ホスピスという自らの死と向き合わざるを得ない場所で、この歌詞に耳を傾けていた人、その人はどういうお気持ちだったのだろうかと想像しておりました。
わたしたちは死んだら、どうなるのだろうか。それは、永遠の問いです。菰野のホスピスは、いろんな事情で10数年だけの稼働でしたが、2000人以上の方々を見送っていかれたそうです。わたしはこれからどうなるの?死に向かう患者さんやそのご家族たち、そしてそれに寄り添う施設の方々の思いが、その建物には込められていました。
わたしたちは愛する人の死に直面したときに、言葉を失います。目の前が真っ暗になり、前へ進む力も失ってしまいます。しかしその中で語られるみ言葉は、わたしたちに何を伝えるのでしょうか。
例年、諸聖徒日に読まれる聖書の箇所は決まっています。福音書は先ほど読まれたマタイによる福音書の山上の説教か、ルカによる福音書の平地の説教、「あなたたちは幸いだ」と繰り返すイエス様の姿が印象的な箇所です。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである」、この言葉は2000年前、イエス様に救いを求めて集まってきた人々に対して語られました。自分の力だけでは歩くことができない人々に、あなたたちこそ幸いなのだと言うのです。その理由はこうです。もうすがるしかないからです。神さまに委ねるしかないからです。自分の力だけではどうすることもできなくなったときに、ギュッと握りしめていた手を広げ、神さまが伸ばされたそのみ手を受け入れる。それができるから、あなたたちは幸いだということなのです。
今日、みなさんと共にお祈りに覚える方々、そのお一人お一人にそれぞれの人生、それぞれの物語があります。そしてその方々を神さまの元に見送ったときに、わたしたちの心は悲しみであふれていたことでしょう。
その、悲しみの中にある人々をも、幸いであるとイエス様は語られます。なぜならその人たちは、慰められるからなのです。それも、神さまが直接、そのみ手を広げて慰めを与えてくれださるのです。暗闇の中に光を与えてくださるのです。
そして心の貧しい、心が乾ききって、カラッカラで、一滴の水さえも欲している人には、「あなたたちは幸いである、天の国はあなたたちのものだから」と宣言してくださるのです。それがわたしたちに与えられた、大いなる希望なのです。
今日の箇所に、とても印象的な言葉があります。例年この箇所がこの日には読まれると先ほどお話ししました。毎年読んでいる箇所なのですが、今年はなぜかこの箇所がとても心に響いてきました。
それは12節の言葉です。「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」。この言葉がどうしてなのかは分かりませんが、今年に限って、わたしの心に響き続けているのです。
キリスト教のお葬式のとき、最後の出棺の際に、「出棺の唱和」というものを唱えます。「ハレルヤ!主のみ名によって行きましょう」、「ハレルヤ!主に感謝します、アーメン」というものです。
「ハレルヤ」という言葉は、「神さまを賛美しよう」、「神さまをほめたたえよう」という意味です。聖餐式の最後、派遣の唱和のときにも「ハレルヤ」とみんなで唱えます。それを唱えて、勢いよくそれぞれの地に向かうのです。
ところがお葬式のとき、ハレルヤってどうして唱えるの?と言われることがあります。多くの方はクリスチャンではないため、それほどハレルヤの意味を知っている方は多くありません。ところが「ハレルヤコーラス」など、音楽などを通して知っている方、これを唱えるのは何かこう、喜びの時なのではないかと感じる方がおられるのです。
そういうときには、正直に言います。キリスト教のお葬式は、悲しみの中に希望があるんですよって。暗闇の中に喜びがあるんですよって。死はすべての終わりではなく、神さまの元で歩むスタートの時、だからわたしたちは涙を流しながらも、「ハレルヤ!神さま、あとはよろしく!」って叫ぶんですよって。
「喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある」というイエス様の言葉。天の報いとは何なのでしょう。わたしは思います。今日、わたしたちがお祈りに覚えている方々は皆、天で報いを受けていると。その報いとは、神さまの元で憩う喜びです。すべての鎖から解き放たれ、神さまと共に歩む喜びなのです。
わたしたちもいずれ、神さまの元に帰るときが来ます。神さまが定められた時間を精一杯生き、そして神さまは迎えに来てくださいます。そのときには、わたしたちには報いが与えられるのです。その約束を、心に留めていきましょう。
今日、この礼拝は、ここにいるわたしたちだけでおこなっているわけではありません。今日来ることの出来なかった人たちのお祈りも、そしてすでに天に召された方々のお祈りもあわせて、神さまは聞いてくださっています。
そのことを喜び、これからも歩んで行くことができますように、お祈りを続けてまいりましょう。
奈良基督教会に関わるすべての逝去者の方々の魂が神さまの元で憩わされ、そして祈るわたしたちの上に大きな慰めが与えられますように。




