2024年2月18日<大斎節第1主日>説教

「霊に導かれて」

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 マルコによる福音書1章9~13節

 今日、大斎節第1主日には、イエス様が荒れ野で誘惑を受けられた箇所が読まれました。マルコの荒れ野の誘惑は、その中でもひときわ短いものとなっています。たったの2節です。具体的な誘惑の内容が語られているわけでもなく、感情移入できる場面もありません。しかしだからこそ、わたしたちは自分に対するメッセージとしてとらえられることもあると思うのです。

 さて、今日の福音書に書かれている内容は、このようなことです。まずイエス様は荒れ野におられたということ。ただしイエス様は、ご自分の思いで行かれたのではないようです。霊がイエス様を、荒れ野に送り出したと書かれています。霊というのは、神さまのご意思です。神さまは、洗礼を受け霊が鳩のようにくだったイエス様を荒れ野に送りました。荒れ野とは、人がほとんどいない寂しい場所です。祈りの中で神さまと語り合う場所として、聖書の中には登場します。

 そこにイエス様は40日間おられました。40日間というと、わたしたちが過ごす大斎節の期間と同じ日数です。ただイエス様はそこで何もせずにおられたわけではありませんでした。40日間、サタンがイエス様を誘惑し続けていたのです。40日間、サタンの誘惑にさらされているイエス様。そしてそこにいたのは、イエス様とサタンだけではありませんでした。そこには野獣がおり、また天使たちもイエス様に仕えるために一緒にいたと書かれています。

 さて、福音書の内容を進めていく前に、少し今日読まれた旧約聖書にも目を向けたいと思います。今日の旧約聖書は創世記9章8節から17節、ノアの箱舟の最後の場面が読まれました。

 最初の人間アダムとエバがエデンの園を追われ、長い年月が経ったとき、地上にあふれた人間は罪を重ねていました。それを見た神さまは、人間を創造されたことを深く後悔されました。そして洪水をおこし、地上を一度リセットしようと考えられたのです。しかしノアだけは無垢で、神さまの目に正しい人であったので、神さまはノアに箱舟を造るように命じます。そしてノアとその家族の合計8人を除いて、すべての人間たちは洪水にのまれていった、そのような物語です。とても恐ろしい話です。しかし続きがあります。それが今日、読まれたところです。神さまは洪水をおこし、ほとんどの人間を滅ぼしてしまったことを深く後悔されました。そして神さまは雲の中に虹を置かれ、このように誓われました。「これから先、肉なるものをすべて滅ぼすことは決してない」と。

 雨がやんだあとに、空に大きな虹がかかることがあります。その虹は、レインボーという名の通り、ボー、つまり弓の形をしています。一説によるとその形は、神さまが自らに課した戒めだと言われています。すなわち、「すべて滅ぼすことはしない」という約束を破ったならば、矢を自らに向けて放つのだということです。その約束の中に、わたしたちは生かされているのです。この礼拝堂は、箱舟を模して造られたと言われています。決して穏やかな日ばかりではないこの世界において、イエス様と共にその荒波を進んでいく、そのような意味が込められているのだと思います。

 さて、福音書の中でイエス様は、洗礼を受けられたすぐあとに荒れ野に導かれました。先ほどもお話しした通り、イエス様が荒れ野に導かれて行ったのは神さまのみ心です。では神さまはなぜ、イエス様を荒れ野に連れていかれたのでしょうか。聖書を読む限り、イエス様は40日間サタンから誘惑を受け続けられたと考えることができます。つまり目に見える、語り継がれるような大きな誘惑がいくつかあったのではなく、常に誘惑にさらされていたということなのです。

 わたしたちは日常の中で、いくつもの誘惑と戦っています。でも道端の石ころをみて、「これってパンになるだろうか」とか、清水の舞台に立って「ここから飛び降りたら注目集めるだろうか」なんてことは、あまり考えないと思います。そんな大それた誘惑は、わたしたちにはあまり関係ないものです。それよりも普段の生活のふとしたときに、神さまよりも自分のことを一番に考えてしまう。そのような「小さな誘惑」の方が、身近に感じられるかもしれません。もっともそのような誘惑はサタンの仕業ではなく、自分の心の問題であることが多いのですが。

 イエス様はそのような誘惑とも、40日間ずっと向き合っていかれたということです。そのそばには、野獣もいました。野獣とは聖書の中では神さまの言葉を理解することができない、そんな存在です。

 イザヤ書には神さまの御国が来たときに野獣も羊も人間も、共に憩うと書かれていますが、まだそのような状態ではありません。イエス様は誘惑だけではなく、身の危険にもさらされながらこの40日間を過ごしてこられたということなのです。

 面白いことに、イエス様はサタンや野獣を退けたり、野獣を退治したり、そのようなことを一切されていません。ただその状況に、その身を置かれているだけです。実はここが今日、一番大切なポイントなのです。

 わたしたちは日々の歩みの中で、様々な苦難や痛みに襲われます。不安や絶望の中、様々な誘惑に対峙し、また自分に危害を与えてくる、いわゆる「野獣」と相対していくわけです。

 イエス様は今日の聖書の中で、サタンや野獣とずっと共におられました。わたしたちが誘惑や危険から抜け出せないのと同じように、そこにとどまっておられました。それはわたしたちに、委ねることの大切さを伝えるためです。イエス様のそばには、サタンと野獣のほかに、天使たちがいました。天使たちはイエス様に仕えていました。天使たちはイエス様のそばにいて、イエス様を守り、そしてイエス様もまたそこに信頼を置いておられたのだと思います。

 わたしたちにも、その信頼、信仰が必要なのです。この混沌とした世界の中で、罪にまみれ暴力にあふれた世の中で、そして自分自身も神さまに背き、悲しませてしまう中で、しかしそばにいて支えてくれる存在があるということを、心から信じることが大切なのです。

 サタンや野獣と共に歩むしかない、しかしその中にイエス様が共にいて、支えてくださる。そのことをわたしたちはいつも信じ、歩んでいきましょう。この大斎節、この弱く小さなわたしたちをお守りくださるイエス様の歩みをたどりながら、復活の喜びへと進むことができますよう、お祈りを続けていきます。