「受け容れることと切り捨てること」
YouTube動画はこちらから
マルコによる福音書9章38~43、45、47~48節
先週木曜日、信徒Mさんの葬送式が行われました。御年102歳、子どもが3人、孫が6人、ひ孫たちが14人です。ご自宅近くのホールで行われたのですが、悲しみもありながらも、清々しい、そして愛のあふれるお別れの会でありました。Mさんがこの奈良基督教会に通い始めたのは、4,5才の頃、ご自分のおばあさんに手を引かれてのことだったそうです。この礼拝堂が建ったのは1930年ですから、この建物の前身の教会です。Mさんのご祖父母の代からここの信徒であったということを考えると、今サンデーキッズに来ているMさんのひ孫さんは、なんと6代目ということになります。クリスチャンとして4代目、5代目、6代目という方はおられても、ずっと同じ教会でというのは非常に珍しいのでないかと思います。素晴らしい信仰の継承だと思うのですが、それは決して順風満帆ではありませんでした。Mさんは、3代目のクリスチャンでありながら、実はご自身、大きな仏教のお家に嫁ぐことになられたんですね。そして、嫁の立場にあって、なかなか一人教会へ通うことができなくなったのだそうです。でも、後に、教会の記念誌に次のように書き残しておられるのです。「仏壇に手を合わせながらやはり頭の中は聖書や聖歌の言葉がきっしりつまっていて一時は悩んだこともありました。しかし、家の宗教と自分自身の信仰は別、仏教もキリスト教も信仰の神髄は同じ、お経の言葉もとても良い教えがあり、この教えは聖書のこの部分と同じなど、感無量にひたる事もしばしばのこの頃です。」
Mさんは、結婚後もキリスト教の信仰をしっかりとご自身の中に保ちながらも、お家の宗教を受け容れておられました。そうすることによって、次の世代へ信仰を継承することができたのです。ご自身が言われるように、その人生にはきっと多くの悩み、苦しみがあったことでしょう。幾度となく、クリスチャンと結婚できていたならと願い、夫を信仰へ導くことができたらと祈られたかもしれません。でも、そんな時、きっと彼女は、心の中にイエス様の言葉を聞かれたのではないかと想像するのです。「わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」Mさんが家族の味方となり、そして同時に家族はMさんの味方であると信じ続けたから、一杯の水を飲ませ合う関係でいることが出来たのだと思います。一杯の水を飲ませるとは、相手に命を与えるということです。そして、相手に命を与えるならば、その人は必ずその報いを受けると主は言われるのです。この違いを尊重し、愛をもって互いを受け容れる、そして共に生きるということこそが、キリスト教の神髄であり、イエスの教えそのものなのではないでしょうか。キリスト教は唯一神教、ただ一つの神だけの存在を認める宗教です。しかし、その教えを大切にするがあまり、必ずいさかいが生まれ戦争が起こるということは私たち人類の歴史からいやというほど思い知らされており、まして神さまがそのことを肯定しておられるとは、私にはとても思えません。イエス様は、私たちが唯一の神を知り、信仰しながらも、本当に大切なことは何かを教えてくださいました。
今日の福音書は、ヨハネが、イエスの名前を使って悪霊を追い出している者を見たが、自分たちに従わないのでやめさせたとイエス様に誇らしげに報告したところから始まります。今でいう他教派の人たちだったのかもしれません。ヨハネは、イエスの名を使うのであれば、何が何でも自分たちに従わせなければならない、それが正しいことだと考えたのでした。でもイエス様は、「やめさせてはならない。私たちに逆らわない者は、私たちの味方なのである」とおっしゃったのです。大切なのは誰かを改宗させることではではなく、その人が我々のグループに属していなくても、今困っている人に対して神の愛の業を行っているならばそれは素晴らしいことではないか。その方がよっぽど大切だと言われるのです。
今日の箇所の後半、イエス様は、先ほどの、受け入れなさいという優しい言葉の直後に、今度はちょっとびっくりするくらい厳しい言葉を話されます。「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい」。「小さな者」自分の力ではなにもできない弱い小さな子どもに代表される社会的弱者のことです。イエス様はそのような人たちを受け入れることこそが、神を受け入れることであり、すなわちご自身の弟子の生き方であると言われました。その小さな者をつまずかせる者、それは、その人たちを教会に入れるのを拒んだり、存在を無視したりする人のことなのです。そして、その人は、私たち一人ひとりの心の中にいるのです。
また、イエス様は、片方の手や足や目を切り捨てるという非常に強く、恐ろしい比喩を用いて、もし、あなたの中にイエスの弟子として歩むことを阻む何かがあるなら、それをすっぱりと切り捨ててしまいなさいと言われます。たとえあなたのこの世の人生の価値が半分になったとしても、永遠のいのちにあずかる方がよいと言われるのです。それは、何でしょうか。社会的地位やプライド、お金かも知れません。神さまの存在を見えなくしてしまう、この世の楽しみ、人間関係や仕事かもしれません。
牧師を志す前、私は、美容業界で働いていました。美容サロンに卸す化粧品を輸入する仕事です。ある時、南アフリカ共和国で製造されている付け爪の材料を買い付ける担当になりました。もう20年ほど前、上司と二人で現地へ行った時に見た光景が忘れられません。アパルトヘイトが廃止されて10年近く経っていたのですが、現地の黒人と白人の生活の圧倒的な違いを目の当たりにしました。水道も電気もないバラックのような家並みが延々と続いた先にあったのが、プール付きの御殿のような社長のお宅でした。翌日工場見学をすると、従業員はすべて黒人の笑顔の美しい女性たちでした。その後、上司と共に商談に入り、商品の値下げを交渉しました。相手側は少し渋りましたが、従業員の工賃を下げることで合意するという結果になったのです。私は帰国後、本当に悩みました。仕事自体とても楽しかったし、華やかで充実していたけれども、これはイエスに従う私がすることなのだろうか? その思いにその後とらわれ続け、思い切って辞表を出しました。そしてこの決断がきっかけとなり、牧師を目指すようになったのです。これは決して武勇伝ではないですし、牧師の仕事もまだまだ半人前です。でも、このことは、神さまが、私にいちばん必要な時に備えてくださった道であり、ご計画であったのだと信じています。
Mさんが自分とは違う宗教のご家族を見捨てず、そこに仕えつづけたのは、そこで神さまの愛の業が行われ、子どもたちへと信仰が受け継がれていくのを知っておられたからです。神さまはずっと、Mさんの祈りを聞いておられたのだと思います。そして私は、若い時に本当の神さまの愛に出会うため、その愛を人々に知らせるために、私の中の切り捨てる部分を示してくださいました。本当に神さまのなさることは時に適って美しい、そのことを思わされます。私たちの人生には、不可解なこと、理不尽なことが本当に多くあります。でも、何があろうとも、すべてはきっとどこかで神の愛が現されるための道なのです。神さまの目に正しい生き方を常に祈り求めていきましょう。