2022年9月4日<聖霊降臨後第13主日(特定18)>説教

「憎む?」

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 ルカによる福音書14章25~33節

 エルサレムに向かう途中、イエス様の元には大勢の群衆がついてきていました。そして多くの人たちが、こう思っていたかもしれません。「わたしも弟子になりたい」と。イエス様の周りには、たくさんの弟子がいたと思います。彼らはイエス様と寝食を共にし、一緒に行動していました。自分もその中の一人に加わりたい。そんな思いを持ちながら、歩いていたかもしれません。

 しかしイエス様は、その思いに対しこの言葉を語られたわけです。家族や自分の命を憎まないなら、わたしの弟子ではありえない。自分の十字架を背負う者でなければ、わたしの弟子ではありえない。この言葉を、わたしたちはどう聞くのでしょうか。

 わたしが子どもの頃、「お父さん、お母さんを大切にしよう」というテレビコマーシャルが毎日のように流れていました。また聖書の中にも、「父と母を敬いなさい」という神さまからの掟が書かれています。それなのに、イエス様は父と母を含め、家族を憎むように言われている。この言葉に、少なからずショックを受けたことのある方は、多いのではないでしょうか。しかしイエス様の真意は、そこではないのです。今日はそのことについて、お話ししたいと思います。

 この前の火曜日、妻の両親がお世話になっている菰野の施設から妻の携帯に着信がありました。それは妻の父が天に召されたという知らせでした。数日前から食事どころか点滴さえもすることができず、ろうそくの火が静かに消えるかのように、息を引き取りました。その知らせを受け、朝のうちに妻と子どもたちは車で菰野に向かい、わたしは昼から電車で行きました。午前中の内に葬儀の段取りは終わり、翌日の午前に火葬場が空いていたため、水曜日に葬送式をおこなうことになりました。

 電車の中で、いろんな思いが心に巡ってきました。わたしが父と出会ったのは妻との交際が始まったころで、そのときにはすでに父は退職しておりました。ですので、説教を聞いたり、牧会の様子を見たりということはほとんどありませんでした。ですが日常のいろんな場面で、父の信仰には何度も触れてきたように思います。父はとても本を読むのが好きな人でした。読むだけではなく、本を買うのも大変好きだったようです。妻と結婚したのち、二人で牧師の道を志そうという決断をしたとき、父は本当に喜んでくれました。

 最初は教会の牧師という形ではなく、施設の特任執事のようなことが出来ればと思い、夫婦で通信の神学校に入ったのですが、小さな子どもを抱えたわたしたちを物心両面から支えてくれました。神戸の父の家に行くたびに、好きな本はどれだけでも持って帰ってきていいよと言われていましたので、大きなカバンをいつも用意していたものです。今、わたしの本棚にある本の、半分以上は父から譲り受けたものです。また、人生の大先輩であり信仰のお手本であり続けた父は、家族をとても大切にする人でした。子どもたちやわたしたちには事あるごとに、絵や聖句を書いた色紙やハガキを送ってくれました。

 今回の父の葬儀は、とても悲しいことではありましたけれども、ある意味、恵まれた時間だったなと思います。教会を抜けることのできない日曜日でもなく、幼稚園の始園式が始まるその前日に、家族全員で行くことが出来たからです。

 さらにコロナのために、本当にささやかな家族葬をしたということも恵みなのかもしれません。コロナのため、家族6人と数名の施設の方たちのみでおこなったお通夜とお葬式は、妻と二人で司式と説教をし、子どもたちと妻の妹が聖書を読む、本当に家族で守った小さな礼拝でした。これは家族を大切にし、わたしたちが牧師になることを心から応援してきた父への、最高のプレゼントになったことだと思います。

 イエス様は「弟子になりたい」とイエス様の後に従う群衆に対し、家族を憎むようにと語られました。大変厳しい言葉です。わたしたち夫婦がおこなったこと、それは「憎む」とは到底言えないのではないか、そう思われるかもしれません。

 わたしはよく説教の中で、聖書の「言葉」について語ることがあります。聖書はもともと、日本語ではない別の言語で書かれていました。そのためその言葉の意味や解釈が分かれることがでてきます。ですから日本語の聖書だけでも様々な訳が出ておりますし、脚注にその詳しい説明が載せられたりしています。たとえばカトリック教会が出したフランシスコ会訳聖書の脚注には、今日の箇所についてこのようにあります。この(「憎む」という)ギリシャ語の動詞は「憎む」の意味ではなく、「より少なく愛する」という意味である。また他の本には、この語は「背を向ける」とか「身を引き離す」というイメージだと書かれていました。こういうときわたしたちは、イエス様の言葉を信仰的に理解することが必要なのだと思います。

 家族や自分の命を憎むということ、それは家族や自分の命よりも神さまのことを大切に思うこと、家族や自分の命に背を向け、家族や自分の命から自分の身を引き離すこと。このイメージと、聖書などから与えられてきた神さまの愛や、わたしたちの心に残っているイエス様の言葉などを思い起こしていく。

 このようにして信仰的に今日の聖書の言葉を読んだときに、わたしの心の中には「委ねる」という言葉が響いてきました。神さまを第一に思い、神さまにのみ、その身を向けることは、決して家族を見捨て、自分を捨て去ることではありません。そうではなく、「自分のもの」として握りしめていたその手を、放すということなのです。「これはわたしのものだから」、「自分が何とかしなきゃ」、それらの思いはお金や物、日々の生活だけにとどまらず、家族や自分自身に対してもよぎるものです。その思いから自由になることは、決してすべてを失くすことではありません。そうではなく神さまにすべてをお任せするのです。神さま、よろしくねとお願いすることなのです。

 家族のことも、自分のことも、神さまは必ず良い方向へと導いてくださる。それはわたしたちが思っていた形ではないかもしれません。またわたしたちが願ったタイミングでもないかもしれません。しかし必ず、神さまはすべてを良くしてくださる。それ何故でしょうか。神さまはわたしたちを愛してくださっているからです。だから安心して、イエス様に従うわたしたちは、わたしたちの周りにあるすべてのことを神さまにお任せしましょう。自分のことも含めて、神さまにお委ねいたしましょう。わたしたち自身が思い煩うことはないのです。イエス様は、わたしたちが担う十字架を共に背負ってくださり、歩んでくださいます。

 そのことを信じ、歩くこと。弟子になるには、特別な資格はいりません。才能がなくても大丈夫です。ただ、イエス様と共に歩む。神さまにすべてを委ね、思い煩いもすべてイエス様にお任せし、担っていただく。それがイエス様の求める「弟子」なのだと思います。これからもご一緒に祈り、歩んでいきましょう。