2021年6月6日<聖霊降臨後第2主日(特定5)>説教

「神さまのみ心」

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マルコによる福音書3章20~35節

 今日の旧約聖書では、創世記の3章が読まれました。神さまはアダムとエバを造られました。二人はエデンの園と呼ばれる場所で、何不自由なく暮らしていました。しかしエバは蛇の誘惑に負け、神さまがダメだと言っていた果実を食べてしまいます。アダムも同じです。二人の目はその果実を食べることによって開かれ、自分たちが裸であることを知るようになります。

 今日の旧約聖書はそのアダムとエバに対し、神さまが二人をエデンの園から追い出す決断をなされた場面が描かれています。神さまはアダムとエバに皮の衣を作って着させ、楽園の外へと追いやります。アダムとエバは神さまに造られたとき、このような言葉で祝福を受けていました。

 「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物をすべて支配せよ。」

 この「支配」という言葉は「管理」という意味です。神さまの言いつけを守れずに楽園を追い出された人間は、それからというもの、額に汗をしながら自分の力で食べ物を得るようになります。女性は苦しんで子を産むようになります。しかしすべてを管理するというわたしたちの務めは、そのまま残っていました。神さまに管理を任されたわたしたち人間は、神さまのみ心に適うように、この自然と向き合っていく必要があるのです。

 今日は「地球環境のために祈る日」です。6月5日は国連の世界環境デーですが、その直近の主日に「地球環境のための祈り」をささげるように日本聖公会では定めています。それはこのようなお祈りです。

 天地万物を創造された主よ。あなたは、すべてのものを造られ、それらをご覧になり『よし』とされ、祝福されました。そして、その管理をわたしたち人間に委ねられました。しかし、東京電力福島第一原子力発電所による災害が示すように、わたしたちはあなたのご命令にそむき、自らの欲望を満たすために自然環境を乱用し、破壊さえしています。今、そのことの故に世界中の多くの人々が苦しんでいます。どうかわたしたちがあなたのご命令に立ち帰り、あなたによって与えられた自然環境を大切に保全し、後(のち)の世代のために残すことができますように。

また、原子力発電所による災害など、環境破壊の被害者の苦しみを取り除き、わたしたちの生活を変え、自然と共に生きることができますように。そして、自然を通じてあなたが現されるご栄光を仰ぎ見ることができるようにしてください。主イエス・キリストによってお願いいたします。                   アーメン

 この文言ですが、2014年に少し加えられたところがあります。まずこの部分です。「東京電力福島第一原子力発電所による災害が示すように」、そして後半のこの部分です。「原子力発電所による災害など」、この二か所が付け加えられているんです。

 原発のことがお祈りの中に加えられる、それはある意味正しいことかもしれません。でもこのお祈りに対して、ある方が疑問を投げかけてくださいました。その方は、こう言われました。

 「このお祈りは、わたしたち一人一人がどう歩んでいくか、日々の生活の中でどのように自然に接し、環境のことを考えながら生きていくのか、そのことが大事なのであって、そこに原発のことを書いてしまうと、自分たちの問題から離れていってしまうのではないか」

 聞きながら、確かにそうだなと感じました。確かに原発のことについて声をあげていくことは大切です。でもそのことで、自分はそれで役割を果たしたとなっていないか。自分は神さまから何を求められ、何をしなければならないのか、気づいているのか。

 今日の福音書には、こんな場面が書かれていました。イエス様の身内の人たちが人をやってイエス様を呼びます。身内ですから、「あなたはそんなこと言うもんじゃない」とか、「あなたは大工の子どもだろう」とか、そういうことを思っていたのかもしれません。自分たちが思うあるべき姿にイエス様が合致しなかった、だからほおっておくことができなかった。

 イエス様はそんな彼らに対してこう言い放ちます。「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と。そして周りに座っていた人たちを見て、こう続けます。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ」。身内の人とイエス様の周りにいた人との違いはなんでしょうか。一番の違いは、イエス様のそばにいたかどうかです。群衆はイエス様のそばに座っていました。そばでイエス様のなさることを見、イエス様が語られる言葉にじっと耳を傾けていました。彼らこそ、神の家族なのです。神さまのみ心は何か。それはイエス様の一挙手一投足に現われているわけです。どんな人と食事をし、何を語っておられるのか。そのことを人々は、イエス様と膝をつき合わせながら汲み取っていきました。

 そして同じように行動していこうとした。イエス様に倣って生きようとした。自分にできることは何かと考えていった。その他者との関りを、イエス様は良しとされるのです。

 「地球環境のために祈る日」、それは何も、ある企業や団体や教会を告発するために設けられたのではありません。自分自身はどうなのか。自分はどこに立っているのか。自分にできることは何だろうか。小さな手かもしれませんが、イエス様の歩みに自分を重ねていく、そのことが求められているのです。

 最近いろんな場所で、SDGs(持続可能な開発目標)という言葉を耳にします。このSDGsでは、2030年までに17の達成目標を決めています。「貧困をなくそう」とか、「エネルギーをみんなに、そしてクリーンに」、「海の豊かさを守ろう」など。そしてそれぞれのゴールが細分化され、169のターゲットが設けられています。ここまでだと、今までもよくあったことだと思われるかもしれません。地球温暖化防止のためとか、食糧危機を回避するためとか、様々な取り組みがなされてきました。でも多くは、企業や自治体など、そういうところがやること、わたしたちは監視をしていく、そういうことも多かったように思います。

 しかしSDGsは、個人の貢献も大切だというんです。ひとごとではなく自分事として行動してほしい、その思いで国連広報センターは、「持続可能な社会のために、ナマケモノもできるアクション・ガイド」という冊子を出して、4つのレベルで「できること」を紹介しています。「ソファに寝たままできること」、「家にいてもできること」、「家の外でできること」、「職場でできること」。そしてSDGsの取り組みでは,地球上の「誰一人取り残さない」ことが誓われています。社会がわたしたち一人一人の力によって変えられ、すべての人に神さまの愛が届けられる。それこそまさしく、神の国です。わたしたちはその担い手なのです。

 じっくりイエス様の声を聞きましょう。神の家族としてわたしたちが歩むとき、この世界は神さまの愛で満たされることでしょう。