2021年2月28日<大斎節第2主日>説教

「自分の十字架を背負って」

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マルコによる福音書8章31~38節

 「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」そう言ってペトロは主イエスに叱られました。サタン呼ばわりまでされてです。イエス様ヒドイ...そう思いませんか? ペトロは心底愛していた自分の先生の身を案じただけなのです。多くの苦しみを受け、ユダヤ教指導者たちから排斥されて殺されるなんて、そんな馬鹿なこと絶対にあってはならぬと。そんなことあるものかと。ある意味、それは当然のことです。もうこの人なしでは生きていけないと思うような、尊敬し愛してやまない人があなたにいたとして、その人がどんな占い師に予言されたのか、町の噂を聞いたのかは知らないが、もうすぐ自分は殺されると断言するのです。それは、だれだって咄嗟に諫めるでしょう。「やめてください。そんなこと言わないでください」と。それを聞いたイエスは「あなたは神のことでなく、人間のことを思っている」とペトロに言うわけですが、そもそもわたしたちは人間なのですから、人間のことを思って当たり前です。イエス様ってなんて理不尽なんだろう、そんな風に思ってしまいますよね。でも、それでも、この機会によくよく考えてみたいと思います。「神のことを思う」とは、いったいどういうことを意味するのでしょうか。

 そのヒントは、今朝の旧約聖書、アブラハムとイサクの物語にあります。本当に衝撃的な物語です。神がアブラハムの信仰を試し、愛する息子を焼き尽くす献げ物として献げよという命令を下します。自分だったらどうするだろう、想像することするおぞましく思うくらいですが、アブラハムは神を信じ、命令されるがままに息子を山へ連れていき、縛って薪の上に載せ、刃物で息子を屠ろうとします。するとそのとき、天からみ使いの声がし、「その子に手を下すな。あなたが神を畏れる者であることが分かった」と告げ、代わりに献げ物となる羊が与えられるのです。羊がかわいそうという話は置いておいて、どうして彼にはそのようなことができたのでしょう。アブラハムはこの時、人間のことではなく、神のことを思うことができたのです。

 神のことを思うために必要なこと、それは神の言葉への信頼です。アブラハムは幾度も神と対話をしていますが、神がアブラハムに対し最初にかけられた言葉は、「あなたを祝福する」というものでした。祝福とは、その人の存在を喜び祝う、その人の幸福を祈るということです。アブラハムは自分が神から祝福された人であることを、心の底から知り、信じていました。微塵の疑いもなく、神に全幅の信頼をおいていたのです。その神の約束が必ず実現することもアブラハムは知っていました。彼が100歳、妻のサラが90歳の時に、神の約束どおりにイサクが生まれたのですから! この信仰の確信があったから、人間のことではなく、神のことを思い、主の命令に従う一歩を踏み出すことができたのです。絶対に大丈夫。神はすべてを良いようにしてくださる、そう確信するアブラハムに迷いはありませんでした。

 では、主イエスはどうだったでしょうか。先週の聖書箇所を思い出していただきたいと思います。先週は、イエスがヨルダン川で洗礼を受け、その後すぐ荒れ野へ送り出されたという話でした。川から上がられてすぐ、天が裂け、聖霊が降り、声が聞こえました。「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。」神の声です。宣教に出て行く前、行く先には十字架があることを知りながら、イエスはどんなに心細く不安に思われていたことでしょう。その恐れが、この力強い声によって打ち消され、人間のことではなく、神のことを思って生きる勇気と希望と力が与えられたのです。その証拠に、荒れ野で悪魔の誘惑に勝ち、野獣がまわりをうろつく中、天使に守られたのです。そして、一歩ずつ、確かな足取りで、十字架への道を歩まれたのでした。

 みなさんにもそんな経験ありますでしょうか。聖公会ではあまり信徒の証しを聞くという機会がなく、それは非常に残念に思います。ある他教派の教会を訪ねたとき、礼拝後に皆で昼食を取りながら、世間話をするかのように、自分たちの信仰が強められた経験や、神のご計画を信じて歩む決心などが語られ、すごいなと思ったことがあります。もちろん個人的に信仰の話を聞くことはありますが、誰にでもいつでも語ることができたなら、もっと素敵な教会になるのでないでしょうか。わたしの経験を一つ挙げさせていただくと、いつも同じ話で恐縮ですが、自分が乳がんの手術をした時のことです。がんに侵されて、自分が死ぬかもしれないということについては、実はさほど恐怖心がありませんでした。何が怖かったかというと、当時4歳と3歳だった子どもたちのことです。この子たちは、もしわたしが死んだらどうなるんだろう? そのことを想像したときの恐怖心は今でも鮮明に覚えています。でも、ある時、前にもお話しましたから端折りますが、神の声を聞きました。「大丈夫、わたしに任せなさい」という声です。そこから、いっぺんに涙が止まり、すべてを主に委ねる決心ができました。万一のことがあっても、子どもたちは神さまに任せればよい。自分のことではなく、神のことを思おうと。「神を愛する者たち、つまりご計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)というパウロの言葉が思い起こされたのです。

 コヘレトの言葉には、わたしたちクリスチャンの大好きな聖句があります。「神のなさることはすべて時にかなって美しい。」(3:11 新改訳)この言葉を知りながらも、時に弱いわたしたちには信じられなくなることがあります。今のコロナ禍もそうですし、今からちょうど10年前の東日本大震災の時も誰もがそう思いました。けれども、神はすべての悪が生じないようにするより、それらの悪と思える出来事から生まれてくる愛と希望をご自分の子どもたちに与えたいと思っておられる、そうキリスト教は信じるのです。それは、十字架の後に復活があることをわたしたちは知っているからです。死は終わりではなく、始まりであるということを知っているからです。その約束が神から与えられ、それは必ず成就することを知っているからです。

 今日の福音書に戻りましょう。ペトロは、主の復活をまだ知りませんでした。イエスがこの後、ご自分は苦しみを受け排斥されて殺されると語った時点で思考はストップし、その後の「三日の後に復活することになっている」という言葉がまったく耳に入らなかったのです。でも、わたしたちは知っているではないですか! この時のペトロと違って、わたしたちは聖書という書物を通して、神のお造りになったことの世界を通して、そして主イエスに従って生きた多くの人々、信仰の先達を通して、神の言葉を聞いているのです。神の言葉によって生かされているのです。

 人間のことではなく、神のことを思って生きること、それは、神の言葉を信じ、神に全幅の信頼をおいて、すべてを委ねることに他なりません。そうして初めてわたしたちは、自分の十字架を背負って、主に従うことができるのです。復活の希望、絶対大丈夫という信頼、わたしは愛され、祝福されているという確信なしに、だれが神のことを思い、十字架を背負うなんてことができるでしょうか。自分の十字架を背負うとは、神のために生きるということであり、神のために生きるということは人のために生きるということです。

 イースターまであと5週間となりました。神の言葉に聞きましょう。そして、信仰の確信を持ち、神のことだけを思って従順に生きた主イエス、またアブラハムに少しでも近づけるよう、祈ってまいりましょう。