2023年12月31日<降誕後第1主日>説教

「まことの光」

YouTube動画はこちらから

 ヨハネによる福音書1章1~18節

 今日の使徒書は、ガラテヤの信徒への手紙3章23節から25節、および4章4節から7節が読まれました。この手紙は、キリスト教の基礎を作り上げたと言ってもいいパウロという人物が書いたものです。彼は宣教旅行を何度かおこないながら、いろいろな場所でイエス様の十字架と復活を伝えていきました。様々な迫害や困難に逢いながらも、人々に福音を語り、神さまの愛を伝えて行きました。彼がかつて訪れた場所に送った手紙は、聖書にも多く載せられています。

 キリスト教を自分の命を顧みず伝えて行ったのですから、パウロはさぞかし信仰深かったのだろうなと思うでしょう。しかし彼は、もともとはキリスト教に理解があるどころか、迫害をしている人物でした。彼は敬虔なユダヤ人として生まれ、ファリサイ派として律法に忠実に生きていました。そのため、イエス様の福音を受け入れることができなかったのです。ファリサイ派が大切にしていたのは律法をきちんと守り、自分の力で神さまの前に正しい者になることです。ところがイエス様は、そうではありませんでした。光として暗闇の中にたたずむ人たちのうちに来られたイエス様は、羊飼いのように汚れた者とされ、人々に虐げられ、排除されていたような人たちに喜びを告げました。

 自分がそれまで信じていたのとは全く違う形で、思いもしなかった人たちに神さまの愛を伝えるイエス様の教えを、パウロはすぐに受入れることはできませんでした。彼はキリスト教徒を迫害し、命を奪っていったわけです。

 パウロにとって、イエス様の出来事というのはそれまでの常識がひっくり返ってしまう大転換でした。彼は今日の使徒書の中で、こう語っています。

 信仰が現れる前には、わたしたちは律法のもとで監視され、この信仰が啓示されるようになるまで閉じ込められていました。こうして律法は、わたしたちをキリストのもとへ導く養育係となったのです。わたしたちが信仰によって義とされるためです。しかし、信仰が現れたので、もはや、わたしたちはこのような養育係の下にはいません。

 パウロは生粋のユダヤ人として、そしてファリサイ派として生きていたときのことを、「律法のもとで監視され、閉じ込められていた」と表現します。そして律法は、わたしたちをキリストに導くのだというのです。これはどういうことでしょうか。

 わたしたちが今使っている聖書で「信仰が現れる前には」と訳されているところが、2018年に発行された新しい聖書は、「真実が現れる前は」と変わりました。信仰というと「自分で何とかしないといけないもの」というイメージが付きまといますが、そうではなく「まことの光」が与えられたということなのでしょう。

 律法は決して無意味なものではありませんでした。律法がわたしたちにもたらしたものは、罪の自覚です。律法によると、わたしたちは誰一人として正しいものになることができないということです。律法を守り、正しい者として生きているつもりだったパウロだからこそ、神さまの本当のご計画である、イエス様をわたしたちの間に送るという意味に気づかされたときに、まさに目からウロコの体験をするわけです。

 行いによって義とされるのではなく、信仰によってのみ義とされる。そのパウロの理解がキリスト教の土台となりました。パウロは回心した後、ユダヤ人だけでなく異邦人と呼ばれる外国人に対しても、福音を宣教していくのです。

 今日の福音書にもこのように書かれていました。

 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。

 わたしたちはこの降誕日に、新たな律法や決まりを与えられたのではありません。そうではなく、恵みと真理とを、イエス様を通して与えられたのです。それはわたしたちの業によるのではなく、一方的にわたしたちに与えられるものなのです。

 聖歌441番にこのような歌があります。

 みことばは人となり わたしたちの間に住まわれた。

 この聖歌は、今日の箇所であるヨハネによる福音書1章14節にある「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」という聖句を元にして作られたものです。覚えやすいメロディーで、たまに口ずさむことがあります。

 わたしの実家には仏壇も神棚もある、いわゆる「日本的な」家です。除夜の鐘が鳴り始め、紅白歌合戦が終わると、家族みんなで初もうでに出かけたものです。行き先は歩いていけるような近所の神社でしたが、そこでおとそをいただき、また夜中、来た道を帰っていくということを、年に一度おこなっていました。簡単にいうと、神社の神さまに会いに行き、また神棚に神社の神さまを迎えに行くということをしていたように思います。そのために年末には神棚の大掃除もしていました。こちらがきちんと準備をしてお迎えする。神さまはその正しく準備ができたところに来てくださる。

 キリスト教の神さまは、どうなのでしょうか。旧約の時代、神さまは選ばれた人たちだけに恵みを与えられると考えられていました。律法を守ったかどうかだけでなく、民族によって、血筋によって、救われる人は定められていたのです。

 その救いの道が、イエス様のご降誕によって、すべての人に広げられたのです。そして神さまは、自らの力で神さまの元に行くことが出来ないわたしたちにも、イエス様をお与えくださいました。向こうから来てくださるのです。わたしたちが罪深い一人一人であるにもかかわらず、本当の光がわたしたちの元に来てくださるのです。

 先ほど、「わたしたちの間に住まわれた」という聖歌を紹介いたしました。この「間に住む」というところ、何気なく読み飛ばしてしまいそうですが、実はとても大切なことが書いてあります。たとえば礼拝堂の中に10人の人がいたとします。その中の何人かの元に、イエス様が来てくださるというのではないのです。「間に住む」ということは、わたしたち一人一人がどんな人間だったとしても、たとえ神さまの前に立つのはふさわしくない人間だったとしても、共にいてくださるということなのです。

 その、わたしたちの間に、わたしたちの内におられるイエス様を感じ、わたしたちの上に与えられている豊かな恵みに感謝したいと思います。この一年、様々なことがありました。世界では争いが止むことがありません。

 多くの血が流され、人々が痛み、傷ついているこの現実を思うときに、わたしたちだけではなく、憎しみ合う人々の間にも、イエス様、どうぞ来てくださいと願わずにはおられません。

 すべての人が平安のうちに生き、そしてすべての人が神さまと共に歩む、そのような一年が来ますように、お祈りしていきたいと思います。