2022年10月9日<聖霊降臨後第18主日(特定23)>説教

「感謝と賛美はわたしたちの務めです」

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 ルカによる福音書17章11~19節

 2018年に日本聖書協会は、新しい翻訳の聖書を発行しました。その翻訳では、今日の箇所の前半がこのようになっています。

 イエスは、エルサレムに進んで行く途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。ある村に入られると、規定の病を患っている十人の人が出迎え、遠くに立ったまま、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちを憐れんでください」と言った。

 どこが変わったのか、気づかれたでしょうか。病名が変わったんですね。新共同訳聖書では「重い皮膚病」と訳されていた言葉が、新しい聖書では「規定の病」という言葉になっているのです。そもそもこの「重い皮膚病」という言葉自体、口語訳や文語訳には登場していなかった訳語です。現在のハンセン病を意味する言葉がそれ以前の聖書には使われていたのですが、差別を引き起こすという理由で現在は使われなくなっています。

 しかし、この病にかかった人は、事実、差別を受けていました。共同体から排除され、人々との交わりを断たれていました。新しい聖書の「規定の病」という言葉、これは「宗教的に汚れていると規定された病気」という意味を持ちます。

 今日登場する10人は、単なる病気、見た目で判断できる重い皮膚病ということだけではなく、宗教的に排斥された人々、聖書や宗教指導者たちから、「汚れている」という烙印を押された人々だということです。

 イエス様は、サマリアとガリラヤの間を通られたそうです。そのような国境には、きっと滅多に人が入らないような場所もあったことでしょう。町や村、集落から追い払われた彼らは、人目を避けるようにそのような場所で生活していました。一生戻ることのできないかもしれない故郷に思いを馳せ、家族のことを思い出す。そしてその中には、サマリアの村からやって来た一人もいたわけです。

 彼らの生活は、とても貧しかったことでしょう。ちゃんとした住む場所もなく、日々の食料もままならなかったと思います。でも誰も助けてくれません。なぜならそれは、「規定の病」だから。宗教的に汚れているということは、きっと彼らがひどい罪を犯したに違いないと、人々に思われているということなのです。

 想像してみましょう。わたしたちが置かれている状況が、彼らと同じようなものだったとしたら。いつ抜け出せるかも分からない、出口もまったく見えない暗闇に立たされ、毎日を何の希望も持たずに過ごしていく。他の人との交わりもなく、無味乾燥な日々がただただ繰り返されていく。今、この話を聞きながら、「いや、わたしはそこまでひどくはない」と思う人もいるでしょう。しかし、現在のこの日本において、多くの若者が、この10人と同じような状況に陥っているという現実も確かにあるのです。

 彼らは救いを求めていました。誰かが自分たちのそばに来て、手を差し伸べてくれるのを待ちわびていました。そして、遠くからやってくるイエス様の姿に気が付いたのです。彼らは遠くから、イエス様に向かって叫びます。実は彼らは、イエス様に駆け寄ることすら禁止されていました。「お前たちは汚れているのだから、人に近づいてはいけない。また誤って人が近づいて来そうになったら、『わたしは汚れています。汚れています』と大声で叫べ」とまで定められていました。

 しかしイエス様は、その状況の中に来て下さったのです。「どうか、わたしたちを憐れんでください」と、10人の人たちに懇願されたイエス様は言われました。「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と。先ほどの「規定の病」の意味を知らないと、よく分からないところです。イエス様は近づいて手を置いていやされたわけでも、「あなたの病気は治った」と宣言されたわけでもありません。ただ「祭司のところにいって体を見せる」ように言っただけです。というのは、「規定の病」とは「宗教的な汚れ」を定めたものなので、祭司の「あなたは清い」という宣言によって、病気が治ったということになるからです。その祭司の宣言で、共同体や家族の元に帰ることができるというのです。

 彼らは最初、半信半疑で祭司の元に歩いて行っていたことでしょう。病気が治ったという自覚もないまま、イエス様が言われた通りに、ひょっとしたらダメもとで祭司の元に向かっていたかもしれません。ところが歩いている途中、一人が声を上げます。「おい、お前の体、きれいになっているぞ」。すると他の一人が言います。「いやいや、お前だって」。10人は服を脱ぎ、互いに体を見せ合い、自分たちにいやしのみ手が伸ばされたことに気づきます。

 さてここからが大事なんですね。10人は二手にわかれるのです。9人はそのまま、喜び勇んで祭司の元に向かいました。それはそうでしょう。家族の元に帰れるのです。元の暮らしに戻れるのです。足取りも軽く、急いで行ったことでしょう。彼らの気持ちは、痛いほどよく分かります。彼らはみな、ユダヤ人でした。救いはユダヤ人から訪れると信じられている中、病気によってその枠組みから一旦外れたものの、祭司の宣言によってまた救いの中に入れられる。そう思ったのかもしれません。

 一方、一人のサマリア人は、その向きを変え、イエス様の元へと戻って行きます。なぜか。神さまを賛美し、イエス様に感謝するためです。彼は、自分がただ肉体を清くされたのではないことに気づいていました。新しい命を与えられ、これからは神さまが共におられることを知ったのだと思います。

 そしてそれは、わたしたちも同じなのだと思います。わたしたちは日々生かされ、そして礼拝へと招かれます。心が乾き、救いを求め叫んだときに、イエス様が来て下さった。もう一歩も自分の力で歩けないときに、イエス様が抱きかかえてくださった。その日々を思い起こし、礼拝へと招かれたときに、わたしたちがなすべきことは何なのでしょうか。

 聖餐式の中で、司祭の「主なる神に感謝しましょう」という呼びかけに対して、会衆はこのように応えます。「感謝と賛美はわたしたちの務めです」。わたしたちはユダヤ人ではない。異邦人です。人々は思っていました。神さまはそのような人を救わないと。またわたしたちは、罪に汚れた一人ひとりです。自分の力で清くなれない。神さまの前にまったく正しいものになることができない。人々は思っていました。神さまはそのような人を排除するのだと。

 しかし、実際は違ったのです。イエス様はそのような人にこそ関わり、「あなたたちのことを神さまは愛している」と宣言されました。この神さまの思いに、わたしたちはどう応えればよいのでしょうか。

 「感謝と賛美はわたしたちの務めです」、この言葉を唱えるときに、神さまから見たら本当にちっぽけなわたしたちが憐れんでいただき、顧みられていることを喜びたいと思います。そしてその喜びを、一人でも多くの人に伝えることができれば、どんなにうれしいでしょうか。