「神の子イエス・キリスト」
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マルコによる福音書1章1~8節
「神の子イエス・キリストの福音の初め」、マルコによる福音書はこの言葉で始まっています。そしてすぐに、洗礼者ヨハネが荒れ野で叫ぶという記事に入っています。つまりイエス様の誕生の記事は書かれていません。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と書かれ、すぐに洗礼者ヨハネが登場するのです。
今年はB年、マルコ福音書が中心に読まれていきますが、その福音書の特徴は、イエス様は公生涯の中で、どのように、そしてどのような人に関わって来られたのかということなのだそうです。つまり、人格をもったイエス様が、周りの人に対してどう接して来られたかということです。さらにそのことを通して、イエス様はわたしたちにどう関わられるのか、またわたしたちはどのようにこの世界で歩んで行くのか、そのことが示されているのです。その福音書に最初に書かれているのが、「神の子イエス・キリストの福音の初め」という言葉です。これはこの福音書が何を伝えようとしているのか、いわばタイトルのようなものかもしれません。
本屋さんで本を手に取るときに、帯がついていることがあります。特に新刊などに多いようですが、今からマルコ福音書を手にするわたしたちに、この書物は神の子イエス・キリストについて書かれているのだということを伝えるのです。
では、神の子とはどういうことでしょうか。最近世の中では、「神」という言葉があまりにも簡単に使われているような気がします。ドラマなどでおもしろかった回を神回といったり、ヤクルトの去年三冠王を取った村上選手の上という字を神に変えたり。お店の名前でも、神の湯、神のエステ、またとてもすごいことをした人に対して、「神~」と呼んだりもします。でもこれは、聖書の時代には考えられないことでした。「みだりに神の名を唱えるな」という掟が示すように、神という言葉は軽々しく用いるものではないというのが、当時の考えでした。
しかしマルコ福音書は、その一番最初に「神の子」という称号を記します。それはイエス様が、どう考えてもそうとしか表現できない、特別な方であることを示します。さらに続いて、「イエス・キリスト」という言葉です。このイエス・キリストとは田中一郎のような、苗字と名前をあらわしている者ではありません。名前はあくまでイエスです。ではキリストとは何なのか。キリストとはヘブライ語メシアのギリシア語訳です。メシアとは救い主、油注がれた者という意味です。つまり「神の子イエス・キリスト」という言葉は、こういうことを意味しているのです。「今からイエスという方の話をします。その方は神の子であり、そしてわたしたちの救い主ですよ」と。
それはつまり、信仰の宣言と言ってもいいのかもしれません。イエス様を救い主として受け入れ、そして共に歩んで行く。単なる昔の偉い人の伝記ではなく、わたしたちにどのような方が関わっていかれるのか、そのことをわたしたちはこの福音書を通して知らされていくのです。
そして、神の子イエス・キリストという言葉のあとには、「福音の初め」という言葉が続きます。福音とはグッドニュース、喜びの知らせのことです。ここに書かれているのは、生きる知恵や道徳、倫理的な勧告ではありません。わたしたちが神さまに、どれほど愛されているのか。そのことが書かれているのです。
そして神さまがその愛のしるしとして与えられたイエス様は、わたしたちとどう関わって下さるのか。大切なかけがえのない存在として、わたしたちをどのように導いてくださるのか、そのことをこの福音書を通して感じることが出来ればと思います。
さて、今日の福音書に戻ります。2節以降には、イザヤ書の預言と共に、洗礼者ヨハネが登場します。洗礼者ヨハネは、「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と書かれています。ここで「悔い改め」という言葉が出てきます。この言葉は聖書の中では、とても重要なものです。一般的に悔い改めというと、反省とか、ごめんなさいとか、そういうちょっと間違った方向に行こうとしているその向きを変える。軌道修正のような感じに思えるかもしれません。
しかし聖書でいう「悔い改め」は、180度向きを変えることです。簡単に言うと、自分と神さまとがいて、ずっと自分の方ばかりを見ていたその向きを、180度グルンとひっくり返すのです。回れ右です。そして神さまの方に向き直る、それが聖書でいうところの、「悔い改め」なのです。
洗礼者ヨハネは、らくだの毛衣を着、腰に革の帯を締め、いなごと野蜜を食べていました。荒れ野で「悔い改めよ」と叫ぶ彼の姿は、人々の目には恐ろしく感じられたことでしょう。だから人々は、こぞってヨハネの元で罪を告白し、洗礼を受けました。
しかし洗礼者ヨハネは、言うのです。「わたしよりも優れた方が、後から来られる。わたしは水であなたたちに洗礼を授けたが、その方は聖霊で洗礼をお授けになる」。ヨハネ自身は後から来る方がどのような方なのか、よく分からなかったかもしれません。自分と同じように人に厳しく接する、そのような方が来るのを期待していたのかもしれません。ここにはまだ、イエス様の登場はありません。この降臨節、イエス様が来られるのを待ち望むこの時期に、わたしたちはイエス様がどのような方であるのか思い描きながら、ワクワクしつつ待ち望むのです。
先日、とてもうれしいご報告をいただきました。「25日のクリスマス礼拝で、主人が洗礼の恵みにあずかることになりました。感謝です。いつもより、わくわく感が増す、降臨節ですが、心をしずめ、祈りたいと思います。ありがとうございます」、このようなメッセージをある方からいただきました。「あれ、誰のことだろう?」と思う方も多いでしょう。それも無理はありません。教会では毎週、YouTubeでの説教配信を続けています。そこにコメントを入れてくださる方がおられまして、これまでもそのコメントに励まされることも多くありました。その方がどんなお方なのか、どこにお住まいなのか、それはわかりません。もしかしたらお会いしたことがあるかもとかいろんなことを想像しますが、そういったことは実はどうでもいいことです。
大切なのは、そのように何だかわからないところでつながり、祈り合える方がいるということです。そして何よりも、クリスマスに向けてワクワク感が増すということです。クリスマスにまたお一人、神さまの恵みに満たされる。こんなにうれしいことはありません。そしてその恵みは、間違いなくわたしたち一人一人にも、注がれ続けているのです。
まもなく、クリスマスの時を迎えます。イルミネーションやコンサートや年末の大掃除、いろいろなことで心もザワザワしているかもしれません。でもどうぞ、心を静め、なおかつワクワク待ちましょう。
みなさんの心にも、必ずイエス様は来てくださいます。